ボードゲームの楽しみ

久しぶりのコラムである。ここ最近は記事を思いつくと月刊スパ帝国の方に書いていたのだが、今回は是非とも雑誌を購読していない人に届けたい内容なのでブログに書く。即ち「なんでわざわざボードゲームで遊ぶのか?」という問題である。

ボードゲームはめんどくさい。コンピューターゲームと違って物理的に集まらねばならぬし、準備やら片付けやらが手間だし場所も取る。それにもかかわらずボードゲームで遊ぶ理由とは何だろうか? それは主に3つである:

  • ルールの透明性
  • コンポーネントの楽しさ
  • 先進的なメカニクス

以下、順に解説しよう。

 

ルールの透明性

ボードゲームはルールのあらゆる詳細がプレイヤーに明かされている。この行動が成功する確率は何%あるのか? 成功と失敗それぞれの結果は何か? 最終的にどうすると勝ちなのか? こうした戦略判断の基盤になる情報は全てルールブックなりカードなりに書かれている。人力で駒を動かしている以上、そうでなければゲームが進行しない。

コンピューターゲームは往々にして内部の挙動をプレイヤーから隠している。次のフロアに店が生成される確率は何%か? AIへの平和的アプローチと脅迫的アプローチはそれぞれ何%の確率でどんな結果をもたらすのか? このステータスは戦闘で何がどれだけ有利になるのか? 全ての細則がプレイヤーに明かされているコンピューターゲームは非常に少ない。酷い物になると表示上の確率と実際の確率が異なっていたり、プレイヤーの状況に合わせて恣意的に結果を弄ったりしている。これは「与えられた規則に対する最適解を創造する」というゲームの中核そのものを台無しにしている。

ボードゲーマーが往々にしてコアゲーマーであるのはまさにこの理由による。ゲームを熱心にやり込むと、次第にルールの細部を研究し始める。この特殊能力は内部でどういう挙動をしているのか? 敵はどういうアルゴリズムで生成されているのか? そうした情報に基づいて理知的に意思決定をする事がゲームプレイなのだ。そうしたゲーマーにとって、全ての細則が公開されているボードゲームは素晴らしい選択肢である。

 

コンポーネントの楽しさ

駒、ボード、ダイスといったコンポーネントそのものも楽しみの源泉である。例えば「ストライク」はダイスを物理的にぶつけて奪い合うゲームであり、実際に物を投げるからこそ楽しい。「ツォルキン」の盤には巨大な歯車が付いていて、ぐるぐる回すだけで楽しい。「テラミスティカ」には小さな人型の駒「ミープル」が付いて来て、「じじい僧院送り」と称してどんどんボードに放り込む。

楽しさは指先でも感じるものだ。綺麗に加工された木製の駒や、スリーブに入ったカードや、厚みのあるボードはそれ自体として素晴らしい玩具である。次はどんな工作品に出会えるのか、それも楽しみのひとつなのだ。

 

先進的なメカニクス

ゲームのルール・メカニクスに関する限り、ボードゲームはコンピューターゲームより進んでいる。例えば「インペリアル」は20世紀初頭を舞台にしたヨーロッパ征服ゲームだが、プレイヤーは国家指導者でなく投資家になる。色々な国の債権を買い、最も多くの債権を有するプレイヤーがそこを支配する。そして利子を支払わせたり他の国を潰したりして自分の得点を増やすのだ。

「エクリプス」は宇宙を舞台にした帝国建設ゲームで、支配星系を増やせば増やすほど収入が高まる。そしてそれは指数的増加なのである。5つの星を持っていると収入は8だが、10の星を持っていれば収入は21になる。その一方で多くの命令を一度に下そうとすると管理コストが跳ね上がるため、拡大と集中のバランスを上手く取らねばならない。

ボードゲームは開発に要する人員がコンピューターゲームより遥かに少ない。市販のボードゲームの多くは1人でデザインし、もう1人がアートワークを担当するという形で作られている。これゆえ実験は遥かに容易であり、先進的なルール・メカニクスが次々に生まれている。ちょうどインディーズゲームと同じ状況だ。

ゲームとは即ちルールの集合体である。優れたルール、優れたメカニクスを探し求めるならばボードゲームを避けて通る事はできない。それゆえに我々はボードゲームで遊び続けるのである。