翻訳記事:勝つ為に戦う(13)

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調練

孫子は厳しい調練に関して複数の章を割いて述べている。明確で実効性のある懲罰と報奨のシステムは軍隊にとって必要不可欠であると説く。戦場の混沌の中で、兵士は肉体的にも精神的にも極大の緊張に晒される。生き延びて任務を果たすには命令を反射的に遂行できなくてはならない。指揮官は部下が命令通りに動く事を信じ、部下は指揮官が正しい命令を下す事を信じなくてはならない。同様にして、プレイヤーは自分の肉体が意図通りに動いてくれる事を信じる必要がある。

 

操作スキル

実戦で複雑な技を繰り出すには、訓練を通じてそれを第二の天性としなくてはならない。多くの技やテクニックを体が覚えるほど、操作に注意力を割かずに済む様になり、それだけ戦略判断に集中できる。無論その割合はゲームによって違いがある。テニスや格闘ゲームはチェスや”M:tG”よりその傾向が顕著だ。

考えた時にはもう玉は落ちている。

—ジャグリングの諺

生まれつきこの種の操作が得意なプレイヤーもいる。全てのプレイヤーが最終的に同じレベルまで到達できる潜在能力を持っているかどうかは定かでないが、明らかに上達が早い人間は存在する。操作の上手さはしばしば「実力」と呼ばれるが、実力には色々な側面がありこれはその1つに過ぎない。操作も確かに重要だが、対戦ゲームで最も重要な能力は読みと計算だ。こちらは遥かに見えにくい。自分の眼前で示されたとしても、相手の本当の実力はなかなか見えないのである。一方操作の上手さは誰にでもすぐ分かる。複雑な操作をミス無しに実行できるかどうかである。操作技量は検知しやすいが故に、些か過大評価されているきらいがある。別に私が操作が下手だからそう言っているわけではない。

操作は重要である。明らかな理由の他に、それが知識よりも長く持続する優位だという事もある。今日の世界においてはゲームの戦術に関する情報は非常に速く流れる。新しい「秘密の技」はそう長く秘密でいられない。操作の上手いプレイヤー、いわゆる「技巧派」は、それらの情報を手にして、更に改良して行ける。知識を得るのは技量を得るより遥かに簡単である。技量は数年に渡る筋肉記憶の調練でしか得られない。

 

精神面の強さ

調練は操作技量だけの話ではない。精神面の強さも必要だ。勝負に全力で向き合い、集中力・不屈さ・注意力・体力などの限られた資源を保ち続ける能力である。肉体面の調練は資源そのものを増やす。どれだけの耐久力と注意力を実戦に持ち込めるかを決めるのである。一方精神面の調練はそれらの資源を活用する力を増やす。大会の最後の試合になっても、最初の試合と同じくらい強烈に勝利を追い求めていなくてはならない。そういう状況を作り出す必要がある。

チェスのマスターにして作家のエドワード・ラスターはその著作”Chess for Fun and Chess for Blood”の中で大会に関してこう述べている:

思うに、精神的緊張の極地とはチェス大会におけるマスターの疲労だろう。最も難しい数学の問題を解くのでさえ、チェス大会ほどには疲れない。そして数学は全ての知的活動の中で最も難しい分野である。肉体の健康はチェス大会における最重要の要素であり、それゆえスタミナに勝る若いプレイヤーは年配のプレイヤーに対して大きな優位を持つのである。

私の同僚であるセス・キリアン同じ考えをストリートファイターの大会に関して非常に上手く述べている。以下に引用しよう:

大会に勝つには戦略と操作だけでは駄目だ。気を散らす物全てを振り切る事ができなくてはならない。挽回不能に思えるリードを取られても、歯を食いしばって踏みとどまらなくてはならない。あるゲームにおいて常にトップに留まり、国内の強豪を下して行くには、精神面のタフさが必要である。「勝つ」だけでなく「大会で勝つ」には。これは雑魚が常に見逃している事だ。それは動画で「見る」事はできない。優れたプレイヤーなのに大事な一番を逃すのはここが欠けているからである。集中力を保つ事は非常に重要だ。以下によくある陥穽を述べよう:

 

新鮮さを失う

大会は(さっさと負けてスナックバーに引っ込む気でいるのでない限り)特注の体力搾り取り機である。ゲームセンターの中にいて、緊張し、他の皆も緊張している。音楽はうるさく光は眩しい。どいつもこいつも臭い。そこに10〜15時間ぶっ続けで居続けなくてはならない。その間碌な物は食べられないし、飲めるのは砂糖水である。

あらゆるハードコアゲーマーは、非常に長くプレイしているとある時点で燃え尽きの感覚に達する。勉強していて同じ文章を繰り返し繰り返し読んでいるとそれが無意味に思えて来るが、同じ事がストリートファイターでも起きる。精神が半ば昏睡状態に陥り、2秒前と同じ無駄な動き以外は何もできなくなる。顔に「次の波動拳を撃つぞ」と大書きしてあるのである。そしてまんまと超必殺技を食らう。これは中級者にとっても小さな問題ではない。何かの技を外した時(特に波動拳)、その技を出せると「証明」しなければと思ってしまう。一体誰に証明するのかは神のみぞ知る。そしてその機会が巡って来るとすぐに飛びついてしまう。あたかも馬鹿馬鹿しい「名誉」を守っているかの様だ(波動拳を出せる誉れ高きプレイヤー!)。かくして次の波動拳を繰り出し、強パンチなり何なりで手痛い反撃を食らう。いつもなら賢く強いプレイヤーが、すぐに次の波動拳を出そうとするのである。これは非常に興味深い事だ。あたかも彼らは心に描いた試合の脚本から「脱線」してしまい、そこを元に戻そうと試みているかの様である。「本来はここで波動拳を出さねばならない」という具合だ。これを読むだけでどれだけ多くの飛び込み攻撃を成功させたか分からない。もし0.5秒でもこの事を考えていれば、それが最悪のプレイだという事はすぐに気付くはずである。そしてそれこそ、燃え尽きた時にできなくなる事なのだ。

経験の浅いプレイヤーには馬鹿馬鹿しく思えるかも知れないが、大会で勝ち進むには最初の方の勝ちに気を取られない事が優位を生むのである。勝つ事に囚われなければリラックスして新鮮な気持ちでいられる。精神的疲労はしばしば見過ごされるが、それは現実に存在するリスクなのである。その為に多くのプレイヤーは準決勝以上まで勝ち進むと腕が悪くなる。これは大会の試合が意外に生彩を欠いている理由である。選手は10時間以上高ストレスに晒されているのである。

精神的疲労を軽減するテクニックが1つある。機械的に勝つ方法を編み出すのである。そのアルゴリズムを乗り越えられない程度のプレイヤーに対してなら、ほとんど自動操縦の如くにして対戦する事ができる。「教科書通りに」勝つ方法は飛び道具持ちのキャラクターの方がやりやすい(ゆえに強いプレイヤーはこれを選ぶ傾向がある)が、それ以外でもやり方は沢山ある。こうしたシンプルで効果的なテクニックを実行できれば、最初の方で当たる弱い対戦相手はそれを乗り越えるのに全ての時間を費やす(波動拳の弾幕を避けたり、こちらのザンギエフが43回連続で飛ぶのを何とか落とそうと対空手段を探したり)。連中はかなり高い確率で、こちらを攻撃できる位置に来ようとして馬鹿な動きをする。これはきちんと対処できれば非常に好都合である。

ただし注意。実力が伴わない内はこの手を使ってはいけない。これをやるには本気の戦い方と、それより楽なセーブした戦い方の2つを持っていなくてはならない。中にはキャラクターを使い分ける事によってこれを実行するプレイヤーもいる。こうすると「自動操縦」で楽をするだけでなく、本命のキャラクターでの戦い方を隠しておける。そしてこれはなぜ見事な戦いをする必要が無いかという例証でもある。「勝つためにはあらゆる必要な手段を取る」のであれば、まず何が必要なのかを認識せねばならない。馬鹿馬鹿しい単純なパターンで相手を倒せるのなら、わざわざ他の事をする必要は無い。壊れていない物を直す必要は無いのである。更にこれは相手を怒らせるという追加効果もある。ワンパターンの手でやられ続けると怒りで頭の回路がショートする。そしてますますプレイ内容が悪くなり、ますますミスを頻発し、ますます苛立つ。このスパイラルである。

こうすると思考力を節約できるだけでなく、ある種の「トラウマ体験」が起きる確率を減らす事もできる。過去に囚われるのはどの段階のプレイヤーも免れない陥穽である。既に起きた事に躓き、それに精神力を集中してしまい、眼前の試合をおろそかにするのである(なんであんなに馬鹿な事をしたんだ?)。悪い傾向である。ミスをした。これは既に悪い。そしてそれに囚われる事で更に悪くなっている。それは全く助けにならない。自分を叱りつけたからといって誰も褒めてはくれない。例えば、私が春麗でケンかリュウを相手にしているとしよう(厳しい戦いだ)。そしてどうにか相手の波動拳を誘った。スーパーゲージは溜まっている。そして肝心なスーパーコンボを出し損ねるのである。これほど苛立たしい事はそうそう無い。相手が勝利を大皿に乗せて差し出してくれたのに受け取らなかったのである。こうなった場合、たとえまだ接戦だったとしても、私は往々にして勝負を捨てていた。自分に腹が立ち、「波動拳をスーパーコンボで抜ける事すらできないのなら勝つ資格なんて無い」と感じるのである。愚かしい。同じ事がラッキーパンチで勝った場合にも起きる。自分の力で勝ったのでないからと言って(相手が昇龍拳をミスしたお陰で勝てたんだ…)、座したまま負ける事で自分を罰してはいけない。自分にその優位を取る資格が無いと信じるなら、結局次の試合に負ける事でそれを証明してしまう。過去への囚われである。最上の対処は過去を笑い飛ばし、自分の信仰する神に感謝するなり呪詛を吐くなりして次へ進む事である。運、あるいは相手の単純なミスは全ての大会における構成要素である。それが自分に味方したら喜べばいい。

 

未来は今である

過去に囚われるべきではない。では他にはどこに囚われるだろうか? 落とし穴その3、未来の心配である。大会に出ない内はそんな物が存在するとは思いもしないだろうが、いざ参加してみると簡単に捕まってしまう。

未来に囚われないとは、自分が対戦表のどこにいて誰と当たるかを気にしないという事である。ちなみにこれは運営卓の周りが非常に混む原因である。目の前の課題の困難さに心を囚われてはいけない。もしルーク・スカイウォーカーが自分の目の前の事に集中していれば、タトゥイーンを離れたりはしなかったはずである。化け物プレイヤー47号と同じ組に入れられたのは確かに不安だろう。しかしそれへの心配にエネルギーを費やしていたら、試合が始まってもいない内から相手に大きな優位を与えてしまう。多くのプレイヤーが動揺で自滅する。強者たちは相応の理由があってその名を轟かせているのだろうが、別に何らかの魔力を持っていたり、秘密の技でこちらを瞬殺して来るわけではない(本当にそうだとしてもそれを心配すればますます分が悪くなる)。自分が今戦っている試合に集中せよ。それを越えるとしてもせいぜい次の試合の心配までである。大会が初めてなら、あるいは全てのプレイヤーの経歴とプロフィールを知らないという罪を犯したのであれば、ちょっと周りに尋ねてみよう。例えば雑魚212号はずっとケンしか使わないという情報は有益である。それに合わせてキャラクターを選べる。上級アドバイスその2:本命以外のキャラクターも1人は持っておこう。ワンパターンの猿になってはいけない。全てを破壊する巨大な猿でない限りは。こうしないと相手がキャラクター選択を変えて、こちらのキャラクターを「食って」しまうかも知れない。

(訳注:アメリカの格闘ゲーム大会では複数のキャラクターを使う事がたいてい認められている)

だが、キャラクター選びは対戦の有利不利とは関係なく、使いやすさで決めるべきである。私が春麗を選んだのは最強のキャラクターだからではない(首位と接戦ですらない)。自分にとって使いやすいからである。その為に不利な組み合わせが出来るとしても、「自分の」キャラクターを使って最高の操作をしたい。誰かの作った「ダイヤ」に頼って決めるべきではない。www.shoryuken.comの理屈屋が「XはYに有利」だと判断したからと言って、それを覆せない理由は無い(別にダイヤグラムが無益だと主張しているのではない。その逆だ。単にダイヤは両者が潜在能力が出し切った場合を仮定して作られていると指摘しているのである。大会の試合全てがそうであるとは思えない)。また、「自分の」キャラクターを使っていれば、前例のない状況でも金縛りになりにくい。トッププレイヤーはそういう状況を浴びせて来るのである。立ち止まってどんなテクニックを使えば切り抜けられるかを考えてはいられない。対処法は反射的に、自動的にできるレベルで知っていなくてはならない。それ以外はためらいを生む。即ち負けだ。

精神の強さを保つには、新鮮な気持ちで居続けること。今に集中すること。できる事をやり、目の前の試合だけを考えること。そして勝つための意志を保つことだ。

—“s-kill”ことセス・キラン

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(12)

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剣を収めたまま勝つ

「剣を収めたまま勝つ」とは、実際の戦いが始まる前に勝利を得るという事である。戦いは費用がかかり犠牲も伴う。そして何より敗北の危険を含んでいる。戦う前に勝つ事が可能なら、わざわざ危険を冒す必要はあるまい。

ゆえに善く戦う者は不敗の地に立ち、敵失を逃さない。

—孫子兵法

これは対戦ゲームにはどう適用したら良いだろうか? ひとつは「恐怖のオーラ」を使って試合が始まる前に心理的に勝つというものだ。戦う前に勝つのは常に上策である。しかしひとまずは実際に戦う必要があるとしよう。その場合でも、「本当の戦い」は試合全体に存在するわけではない。ゲームは往々にして位置取りや資源を巡る駆け引きに始まり、攻撃力や防御力を築いた後でようやく実際にぶつかり合う。

実際の衝突こそゲームの理論が最大に発揮される地である。ほとんどの対戦ゲームはこの段階において、「相手は何をするとこちらが読んでいると相手は読んでいるとこちらは読んでいると相手は読んでいるか」という種類の意思決定が求められる。双方とも相手を推し量り、手の内を読み、その読みを相手が読んでいた場合何をして来るかを読み……と果てしなく続く。これはまさに混沌である。そして混沌の中には奇襲があり、運不運があり、敗北がある。

しかしまた多くのゲームにおいて、戦いの前に前に罠を仕掛けておく事が可能である。つまり予めレンガの壁を築いておく。相手はそれを破らなければ押したり引いたりといった戦略に入れないのである。相手は本当の戦いが始まる前に消耗し、もしかしたらそれで倒れるかも知れない。

 

StarCraft

“StarCraft”の様なRTSにおいて、プレイヤーは実際の衝突の前に多数の選択をしなくてはならない。基地をどのように建設し、どのユニットをいつ作るか。実際の戦いの前に敗北する可能性はかなり高い。プロトスでObserverを作らなかった? 残念、相手は不可視のDark TemplarやLurkerを送って来たので負けだ。どんな部隊を持っていようと、相手が見えなくては攻撃のしようが無い。終わりだ。あるいはプロトスで対空ユニットを作らなかった(例えば陸軍に注力してZealotを作っていた)? これまた残念、相手はMutaliskによる空軍を送り込んで来る。またも攻撃できずに負けだ。あるいはまた、自分の基地の周りをきちんと探索しなかったのが敗因かも知れない。相手は視界のすぐ外にBunkerを作っていて、開始早々4体のMarineを立て籠らせていたのだ。そして基地の方に向かってもう1つBunkerを建てる。それを妨害しようとすると最初のBunkerから射撃を受ける。更に4体のMarineが隙を見て基地を荒らしに来るのは時間の問題だ。

このリストは果てしなく続く。”StarCraft”の試合は長期戦になる事もある。戦術と対抗戦術、理論と戦略がそこでは幅を利かせる。こちらは良い場所に3つの基地を建てた。相手は5つの基地を建てたが守りが甘い。まずは相手の資源供給を絶つべきだろうか? あるいは攻城戦を仕掛けるべきか? 側面を攻めるか? これこそ本当の「戦い」だ。しかしまた多くの試合が、この「戦い」に入る前に決着してしまう。衝突の前に負ける選択肢が非常に多く存在するからだ。

これは必ずしもデザイン上の瑕疵ではない。深みである。初心者は覚える事が多過ぎてストレスになるかも知れないが。「分かった、基地の周りを必ず探索すればいいんだろ」「分かった、相手の基地も偵察する」「分かった、Detectorを早く作るよ」といった事が延々と続く。まともに戦える様になる為には、まずいくつものハードルを越えねばならないのだ。

 

ギルティギアXX

変な名前の格闘ゲーム、「ギルティギアXX」について考察しよう。このゲームにはチップという名のキャラクターが登場する。チップはHPが非常に少なく、単純なコンボや単発技でも大ダメージを受けてしまう。技が相打ちになったらチップは死ぬ。チップ使いは相手にまともな戦いを挑んではいけない。ラッシュをかけて相手を固め続けなくてはいけないのだ。チップは移動も技も非常に速く、テレポートと迷彩能力を持ち、空中で3段ジャンプができる(通常は2段)。チップが連続技を繰り出せば相手をガード状態で固める事ができる。その間チップはゲージを溜め続け、後の攻撃を有利にできる。相手はほとんど何もできない。チップのコンボはそれほどダメージが大きくないが、最後に相手を凍らせる事によって読み合いに持ち込める。相手は読み負ければ再びコンボを食らう。そしてまた次の読み合いになる。読み勝てば脱出してまともな戦いを始める事ができる。チップの第一目標は相手にそれをさせない事だ。チップは体力が非常に少ないため、相手も自由に動けると不利になるからだ。

 

M:tG

カードゲームの”M:tG”においても戦わずに勝つ術はある。通常の序盤展開だと、各プレイヤーは毎ターン「土地」カードを場に出す。土地はこのゲームにおける資源である。最初のターンには通常1枚の土地しか無い。2ターン目には2枚。強力なカードは多くの土地を必要とする。ゲームが進むに連れて土地が増え、より強力な(あるいはより多くの)呪文を唱える事ができる様になる。

ならば相手が全く土地を得られない様にすれば好都合ではなかろうか? 相手の資源を断ち、本当の戦いが始まる前に倒してしまうのである。これこそ「土地破壊」デッキの狙いである。このデッキタイプは多くの土地(自分はちゃんと土地を確保できる様にする)と、土地を破壊するカードから構成される。破壊カードの多くは相手の土地を1つだけ破壊するものであり、テーマによって様々な亜種がある。例えば相手のだけでなく自分の土地も破壊してしまう(大丈夫だ、自分は土地を大量に持っている)。あるいは土地を相手の手札やデッキに戻す。1ターンに出せる土地は1枚だけなので、これも資源レースにおいて相手を遅らせる効果がある。自分の資源は確保しつつ相手の資源を打ち砕けば、相手は何もできずに終わるという考え方である。ひとたび相手の手を縛ってしまえば、弱い攻撃カードでも止めを刺せる。相手のチャンスを封じる事で、いつの間にか勝ってしまうのである。

他に妨害デッキというのもある。相手の行動を封じるもので、土地破壊もこの一種とも言える。通常、妨害デッキは相手にカードを捨てさせたり、出したカードを破壊したりする。全てを捨てさせたり全てを破壊する必要は無い。相手の最も重要な武器を使われる前に奪ってしまうのである。相手を無力な屑に変え、こちらのする事を止められない様にして勝つというかなり性格の悪い勝ち方だ。

 

ストリートファイターZERO 2

私自身がストリートファイターの大会で優勝した時の話をしよう。大会の名は東海岸チャンピオンシップ4、通称ECC4である。私はECC3のストZERO 2部門で優勝しており、連覇に向けてかなりのプレッシャーがかかっていた。そして決勝まで進み、ベテランプレイヤーThao Duongと対戦した。Thaoの持ちキャラは春麗だけで、機械の如く正確に技を繰り出し滅多にミスをしなかった。

私はそこまで無敗で辿り着き、Thaoは1敗していた(ダブルエリミネーション方式の大会である)。Thaoが優勝するには4本先取を2セット取らねばならず、私は1セット取れば優勝だった。

私はまずザンギエフをぶつけた。春麗に対抗する秘密兵器である。春麗はザンギエフに対して大幅に有利だと思われているが、私のザンギエフは違う! これで相手を瞬殺する。筈だった。私のブランクのせいか、それともThaoの技量か、あるいは春麗がやはり有利なのか、理由は分からないが私のザンギエフは苦戦した。だが問題無い。いつもの対春麗キャラ、リュウに切り替える。そして何とか1本か2本取ったのだが、これまたブランクが災いし、どんどん負け幅が大きくなって行った。私は恐怖した。そこから何をすべきか、そしてそれによってどんな悪評が立つか気付いてしまったからだ。私に残された持ちキャラはローズだけだった。そしてローズは春麗に対し、有効な技が1つしか無い。しゃがみ中パンチである。

ここで孫子の出番である。私はローズのしゃがみ中パンチを戦う前に勝つ手段として、また戦いを引き延ばす手段として使った。しゃがみ中パンチは地味な技でリーチもそれほど長くないが、恐ろしく判定が強く相手の技を一方的に潰せる。しかも非常に速い。僅かな隙で連発する事が可能である。

これこそ私のレンガの壁である。相手に与えられた第一の試練だ。唯一の問題は第二の試練が存在しない事だ。そして更に悪い事に、これが破られればまともに戦う術はほとんど無い。相手がそれに躓く事を祈るしか無い。そしてそれにいら立ちミスを連発する事を。今思えば機械の如き相手にこういう戦い方をするのは上策では無かろうが、少なくとも無策よりはマシだったろう。他に手は無かったのだ。

私は全力でしゃがみ中パンチを連打した。出した技の90%以上はしゃがみ中パンチだったろう。ある特定の間合いと特定のタイミングでひたすらこれを繰り出す(具体的な所は秘密にさせてくれ)。私は無限の忍耐力でしゃがみ中パンチを繰り返した。そして相手がそれを破らざるを得ない様にした。もしこれを破れば本当の戦いが始まり、相手が勝つに相違ない。だが幸い、相手はこれを破れなかった。相手はこれに正面から挑んで来た。そして時々攻撃の手を休めた。レンガの壁を殴らないという決断を下したのである。私はその隙に理想の間合い(こちらのしゃがみ中パンチが届くより1ドット遠い距離)に入った。その間合いから延々としゃがみ中パンチを繰り出す。無論それだけでは勝てない。だが負けもしない。機械の如きThaoもとうとうしびれを切らせて攻撃して来た。いら立ちから、無謀なタイミングで突っ込んで来る。観戦者によると、私はしゃがみ中パンチを18回連続で繰り出したという事である。その間私も相手も一切他の事をしなかった。

更にこのしゃがみ中パンチの副作用で、私が何をするかという「読み筋」が出来上がった。17回目のしゃがみ中パンチの後に出したしゃがみ強キックは相当な奇襲だった筈だ。実際、17回目のしゃがみ中パンチの後には18回目が来ると思わないか? (追記:実際は18回やっていた。その後しゃがみ強キックである)

長い試合だった。そしてこの逸話も長く語り継がれた。各試合は2ラウンド先取で、ほとんどは第3ラウンドまでもつれ込んだ。決着に要した試合数は14。第1セットは4-3でThaoが勝ち、第2セットは4-3で私が勝って優勝した。私は脱水で崩れ落ちた。946mlのスポーツドリンクを一気飲みした。その時飲んだ”Fierce Berry Gatorade”は今でも勝利の味がする。

閑話休題。もし私がローズで「普通に」戦っていたら瞬殺されていたに違いない。そうする代わりに恐ろしく寒い、観客大不満足の試合をする事にした。しゃがみ中パンチによる「レンガの壁」を築き、本当の戦いが起きない様にしたのだ。更に相手を腐らせるため、時々素早く攻めに行って苛立たせた。少なくとも私が苛立っていると思わせた。

興味深い事に、ストリートファイターの大会の序盤戦はこうした「トリック」によって支配される事がままある。だがレンガの壁を永遠に築こうとするプレイヤーは少ない。いつかはまともに戦う。更に興味深いのは、決勝でこれをやる人間は非常に稀だという事だ。往々にして、決勝まで勝ち上がるほどのプレイヤーならばこの種の置き石を避けるのも上手い。対抗策を編み出す必要はあるにせよだ。こうした上級者同士の戦いは開幕から本当の戦いが始まる。それが普通だ。私はそれを避け続けて来た。トリックだけでは限界があるという事かも知れない(私はたまたま悪知恵で勝ったが)。あるレベルに達したら、勝たせてもらうのでなく勝たなくてはならない。観客にとっては幸いな事に、最強同士の戦いは抜き身の剣のぶつかり合いだ。剣を収めたままの戦いではない。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(11)

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兵は詭道なり

 兵は詭道なり。能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。その無備を攻め、その不意に出ず。

ー孫子兵法

試合の内外における行動は対戦相手に情報を与える。相手にどんな情報を与えているか認識せよ。そしてできる限り偽情報で置き換えよ。ポーカーなど秘密情報のあるゲームでブラフを見破るには、ゲーム外におけるプレイヤーの癖や反応が手がかりになる。ゲームが始まっていない内から、勝つ気があるかどうかボディランゲージで伝わってしまう。自信が無いのを見透かされれば激しい攻撃を受け、防戦一方にならざるを得なくなる。

ポーカーでは自分の反応を隠す為に色々な手段を講ずる。いわゆるポーカープレイヤーのイメージというのは、ストイックで無表情な男であろう。そしていかなる感情も表に出さない。しかしほとんどの人間にとってそれは難しすぎる。以前ポーカーのプロがシャツを鼻まで引っ張り上げ、眉から上は帽子で隠し、目にはサングラスという出で立ちでプレイしているのを見た事がある。なるほど表情が見えなければ読む事もできないだろう! そしてもう一方にはお祭り騒ぎタイプがいる。もし常に活発で興奮していれば、読むべき兆候が多過ぎて肝心の情報はノイズに紛れてしまうだろう。

これらは主にゲームの最中に使う技法だが、始まる前にも使える手はある。試合前に他のプレイヤーを脅したり、危ない奴の振りをしたり、他のプレイヤーが口を滑らせて自分のプレイスタイルをばらしてしまう様に仕向けたり。と言っても私自身はそういう事をあまりしない。正直ないい奴でいる事と比べてどちらが利益が大きいだろうか。それにゲーム中にも相手を欺くのに十分な時間はある。しかしもし「儲ける為に戦う」のであればこれらは有効な手段であろう。

秘密情報があって顔を合わせてプレイするゲームの場合、「試合の外」で計略を用いる機会は沢山ある。カードゲーム”M:tG”から、試合の内と外に跨がる計略を2つ挙げよう。(1)対抗呪文ブラフ (2)一見無謀なフルアタック である。

 

対抗呪文ブラフ

「対抗呪文」は”M:tG”に登場する重要な呪文である。相手がカードを出したら、その効果を発揮する前にほぼ確実に打ち消す事ができる。ただしこれは1回きりの使い捨てだ。対抗呪文を使ったら、もう1回使う為にはもう1枚引いて来なくてはいけない。そしてデッキには同じカードを4枚までしか入れられない(似た様な効果のカードは他にもあるが)。

もし手札に対抗呪文が1枚も無かったら、大量に持っている様に見せかけなくてはならない。そして大量に持っていたら持っていない様に見せかける。対戦相手はこちらが対抗呪文を持っているかどうか知る事ができない(手札は秘密情報だ)。そしてこちらは試合の内外に跨がる計略で相手の考えを操作できる。相手がカードを出そうとしたら、手札から(存在しない)対抗呪文を出そうかどうか熟考している演技をしよう。そして最終的に出さない事に決めたという振りをしよう。もちろん、対抗呪文を出す為の資源(マナ)はちゃんと残しておかなくてはならない。土地は公開情報であり相手にも見えている。いわゆる「タップされていない島2枚」を残しておくという手である。対抗呪文を使うには島2枚が必要だからだ。

ゲームの範囲において、例えば使える筈のマナを使わずに残しておき、手札に(本当は存在しない)対抗呪文がある様に見せかける事ができる。ゲームの範囲外においては、例えば卓上の島カードを弄り回してそれに注意を引きつける事ができる。明らかに手札にそれがある様に見せかける事もできるし、あるいはもっと悪質に、それを気にしない振りをする事で罠を仕掛けている様に見せかける事もできる。口三味線を弾いてもよい。読みが外れたら恥をかくぞと口先のジャブを浴びせる。その気になれば非常に長い間、対抗呪文を持っている(あるいは持っていない)という演技を続けられる。また対抗呪文を持っているかと聞かれたら、他のプレイヤーを惑わすチャンスである。これこそ試合の重要な側面だ。

これら全ての策略が相手を難しい状況に追い込む。もしブラフだと思ったら、最も有効なカードを機会があり次第使えばよい。対抗呪文があると思ったら、弱い方から順に使うだろう。まず弱いカードを打ち消させて、対抗手段が無くなった所で強いカードを通す。読みを誤れば、最強のカードを失う(対抗呪文が無いと思ったのに実際にはあった)か、慎重なプレイに徹した結果勝ちのチャンスを逃し、本当に対抗呪文を引いて来る時間を与えてしまうかである。

 

一見無謀なフルアタック

“M:tG”において、「フルアタック(Alpha Strike)」とは全てのクリーチャーで攻撃を仕掛ける事である。これをやると、次のターンで相手の攻撃をブロックするクリーチャーがいなくなる。通常フルアタックを仕掛けるのは、それで与えられる合計ダメージで即座にゲームに勝てる場合である。勝ってしまえばもう次のターンは存在しなくなる。

双方とも大量のクリーチャーを並べているが、相手の方が多いと想像してみよう。相手がフルアタックを仕掛けて来たらその一部はブロックできるが、残りが貫通してそのダメージで負けてしまう。やばい!

そこでこのターン、こちらから先にフルアタックを仕掛ける。相手はそれを自身のクリーチャーでブロックするかどうか決められる。相手がそれをブロックしなかったとしても、与える合計ダメージは勝利に届かない。しかもその場合、次のターンで相手の攻撃をブロックするクリーチャーがいなくなる(攻撃した次のターンはブロックできない)。こうなると何もしなかった場合より更に敗色が濃厚になる。

もう1つの可能性は、相手がこちらのクリーチャーをいくつかブロックするというものだ。そうした場合クリーチャー同士の戦闘が始まる。これにより相手はクリーチャーを失い、次のターンでフルアタックを仕掛けても勝利に届かなくなる。相手がこちらを選んでくれれば好都合であるが、相手も状況は同じ様に把握している。よほどバカでない限りブロックはしてくれまい。

いや果たしてそうか? 仮に一見無謀なフルアタックを仕掛けたとしよう。相手はブロックする筈が無い。不利な状況を更に悪くするだけだ。この行動はどう見ても悪手、試合に負ける手だ……袂に武器を隠し持っていない限りは。よって自明の理として、相手はこちらに何らかの秘密武器があると読んで来る。これは秘密情報を含むゲームであり、こちらの手札は相手に見えないのだ。

どんな秘密武器があるだろうか? 色々あるが、最も素直な手はクリーチャーの与えるダメージを増やす手段を使いフルアタックで倒し切るというものだ。という事は対戦相手はその手で来ると読んでいる。むざむざと手をこまねいてやられる訳には行かない。ではどうすればよいか? クリーチャーでこちらのクリーチャーをブロックする。その結果クリーチャーをいくつか失い、次のターンでフルアタックによる勝利ができなくなるが、少なくとも見え見えのトリックに引っかかって負ける事は防げる。この悪手は相手に「何か裏がある」と思わせる信号なのだ。

陽平を占領した孔明は、仲達が攻め寄せて来ると計略を用いた。旗を震わせ、太鼓の音を止め、城門を開け放ち、少数の兵が城内を掃き清めていた。こうした予想外の手段は功を奏した。仲達は伏兵がいるのではないかと疑い、そのまま兵を引き上げて撤退してしまった。

—孫子兵法、ライオネル・ジャイルズによる編集後記

即ちこれはブラフであり、本当は隠し武器など無いのだ。これはゲームの範囲内において裏があると思わせる策略であり、ゲームの範囲外においては秘密のカードを使うのをどんなに楽しみにしているかという演技ができる。実際に行ったのは相手に攻撃をブロックさせてクリーチャーを失わせるという策略だ。本当なら相手は勝っていたはずなのだが、今やこちらは時間を稼ぎ逆転の機会をうかがっている。

 

居場所を隠す

今自分がどこにいるか、どこに行こうとしているか、相手に知らせてはいけない。それを知らなければ相手は容易に攻撃を仕掛けられず、どこから攻撃が来るかも予測できない。

“StarCraft”や”Warcraft”などのRTSは「戦場の霧」という概念があり、近くに行かなければ相手のユニットがどこにいるか分からない様になっている。もし資源を採掘する為に新しい基地を作るつもりなら、絶対にそれを相手に悟らせてはいけない。その基地に関する全てを秘密にし、いつどこに作るか、そもそも作るかどうか自体を全く知らせない様にせよ。場合によっては偽の基地を建設して注意を引きつけ、本当の基地を隠してしまうという手もある。相手が気付く様な場所に偽の基地を作り始め、それを阻止したと思わせておくのだ。その間に本当の基地の防備を整え、相手に時間を無駄にさせ、しかも情報も得られる。囮への攻撃によって、こちらは相手のユニットの位置や構成が分かる。向こうはこちらの事情が分からない。とはいえ偽の基地をまるごと作ってしまうというのはいささか極端なケースだ。もっとよくあるのは、偽の一撃離脱攻撃を繰り返して敵の注意を本陣に引きつけておくという作戦である。

対戦格闘などの完全情報ゲームにおいても、自分の位置や行こうとする場所を隠す事はできる。この種のゲームには大抵「良い間合い」というものがある。これは自分の技は上手く機能するが相手の技はあまり有効でなくなる間合いである。例えばスト2でリュウがケンと戦う場合、相手の大足がギリギリ届かない間合いが有利である。その位置でガードせずに立っていれば(しゃがむと当たり判定が大きくなる)、ケンが大足を繰り出しても空振りする。そうするとリュウは簡単に大足で差し返せるし、投げる事もできる。またこの間合いではリュウはケンの飛び道具を見てからガードでき、飛び込みに対しても昇龍拳で迎撃できる。つまりケンの一般的な攻撃は、大部分がこの間合いでは死ぬわけである。無論、どんな間合いがちょうど良いかは対戦の組み合わせによって変わって来る。

上級者はこの間合いの機微をよく知っており、自分に都合の良い間合いを取ろうと激しく争う。弱いプレイヤーも「頑張って」戦ってはいるだろうが、どの間合いで戦うべきかを知らないため、相手の上級者は簡単に良い間合いに行けてしまう。そして有利な位置から試合を支配するのである。

往々にして、上級者はこの良い間合いの存在そのものを隠す。隙のない技を次々と繰り出し、良い間合いの前後をうろうろしながら入念なダンスを踊る。そうして自分が持っている優位を隠してしまうのである。不思議な事に、弱い相手がそれに攻撃を仕掛けると、するりと間を外して差し返して来る。これに苛立つと更に大きなミスをしでかした挙げ句、完全に叩きのめされてしまったりする。これはもう吹き替え映画を読唇術で理解しようとするのと一緒で、偽の動きに惑わされて本当のところは何も分からないのである。

更に上級者は「恐怖のオーラ」の助けもある。もし入念なダンスにおいて激しさと意図を見せつける事ができれば、相手はそれが何かの作戦だと思いこむ。しかしこれは往々にして目くらましである。相手が餌に釣られて罠に陥るのを待つ、時間稼ぎに過ぎないのだ。

 

弱点を隠す

こちらが脆弱な時と堅牢な時とを悟らせなければ有利になる。格闘ゲームにおいて「鳥かご」などの罠はこの好例である。罠にはほぼ全て弱点がある。それを隠すのが要諦だ。

罠とは相手を動けなくする一連の動きである。例えば飛び道具を次々に浴びせ、相手が飛び越えたら対空技で迎撃する。あるいは連続して技を浴びせ、その後すぐに近づいてまた連続攻撃を繰り返す。(相手に攻撃を当てたりガードさせると間合いが離れるので、連続で繰り出すには前進が必要になる)

「ストリートファイター」では罠は見た目ほど安定していない。攻め手が3回、2回、あるいは1回ですら隙間無く繰り返すのは難しい。しかし優れた罠使いは相手を騙すのが上手い。隙間は確かに存在するのだが、存在しない様に見せかける。そして一見隙間の様に見えるのは往々にして囮なのだ。

基本的にどのバージョンでも同じだが、ここでは「ストII’ターボ」におけるリュウの鳥かごを例に挙げよう。相手を転ばせて「画面端」に追いつめたら、相手はもうそれ以上後ろに下がれない。このゲームは2Dなので、波動拳が来たら飛び越える以外に躱す方法は無い。ここで鍵になるのが、遅い波動拳を出した直後に速い波動拳を出すという事だ。相手が遅い波動拳をガードしたら、波動拳の隙間を縫ってジャンプしようとするとほぼ必ず速い波動拳に当たる。この「罠」はわずか2つの技でできているわけだ! 罠としては大したものではないが、目くらましによって30発以上続ける事もできる!

まず、リュウは遅い波動拳を転倒した相手に「重ねる」。つまり相手が起き上がった瞬間に波動拳がそこにある様にして、相手がガードせざるを得なくする。タイミングが良ければ、波動拳の先端でなく後端部分が相手に重なる。この場合、リュウは既に波動拳の戻りモーションを終えて次を撃てる様になっている。仕組み自体はここでは重要ではない。とにかく「重ね」の遅い波動拳、遅い波動拳、そして速い波動拳という3連続の罠という事で理解して欲しい。相手はその隙間を縫って飛び込むのがかなり難しいのだ。

相手を画面端で転ばせたとしよう。この3連発が終わる前に相手が飛ぼうとすると、波動拳に当たってまた最初からやり直しになる。仕方無いので向こうは3発目(速い波動拳)が終わるまで待つ。この時点で隙間ができ、相手は飛ぶ事ができる。もちろんこれはリュウ側も承知で、ゆえに4発目の波動拳は撃たないのである。代わりに飛んだ相手を昇龍拳で落とし、画面端に追い込む。これでまた最初に戻る。相手は怯え出す。この罠は決して抜けられない様に見える。リュウ側はそういう幻想を作り出し、それを利用しているわけである。

今度はリュウは「重ね」の遅い波動拳、遅い波動拳(これは本物の罠である)、そしてもう1発遅い波動拳を撃つ事ができる。これは本物の罠ではない。この3発目の波動拳は飛び越える事ができる。しかし相手は警戒してそれをしない。リュウ側はその後に速い波動拳を撃って本物の罠にする事もできるし、あるいは遅い波動拳を3発浴びせてから速い波動拳で締めるという事もできる。速い波動拳が来ればその後飛び込めるというのは誰もが知っている。だがリュウ側もそれは先刻承知で……ビシッ!……また遅い波動拳で振り出しに戻る。今のは躊躇しない方が良かったのだ…。リュウ側は「恐怖のオーラ」を使って本当は罠ではない技(遅い波動拳の連発)を通し、しかもこっそりと最初に戻っている(速い波動拳の後の遅い波動拳)。リュウ側の激しく断固とした攻めにより、本当は幻想でしかない物が本物の罠に見えてしまうのだ。罠がどこで始まってどこで終わるのかを隠す入念なダンスである。

隙間は罠の鍵となる側面である。ここを上手く誤摩化す事で、受け手はどれが本物の隙間でどれが囮か分からなくなる。時には本当の隙間の後にただ待ち、相手が飛び込んで来るのを待ち構える事もできる。相手は嵐をくぐり抜けたと思い、初のチャンスに攻撃を仕掛ける。ところがそれは見え見えで、上級者なら当然読み切っているわけだ。

私は以前、相手の罠に対して「賢明な」リバーサルを仕掛けたが、毎回毎回読まれて迎撃されてしまった事がある。やっとの事で気付いたのだが、これは追っ手から逃れようとして大きな椅子の後ろに隠れているのと変わらない。そこは確かに良い隠れ場所かも知れないが、部屋にはその椅子以外何も無いのだ! 他の選択肢が無ければ結局見え見えの手になってしまうのである。

故に善く敵を動かす者は、これに形すれば敵必ずこれに従い、これに予うれば敵必ずこれを取る。これを以てそれを動かし、卒を以てこれを待つ。

—孫子兵法

格闘ゲームの上級者は自分の有利(良い間合い)と不利(罠の隙間)を隠し、同時にダンスによって相手を惑乱し、躊躇させ、深読みさせるのである。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(10)

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孫子の兵法

ここまで実際のプレイの仕方については何ら説明して来なかった。ゲームに挑む際の心構えに話は終始し、どんな戦術や戦略を勝負の際に用いるかは述べなかった。この問題に関して、私は独自の見解を持った権威ある存在とは言い難い。多くの高名な著者達が既に語り尽くしてしまったからだ。そしてその中で最も上手く語ったのは孫子であろう。

2500年前の中国で、孫子は「兵法」という短い教科書を書いた。それからの2500年間、無数の著者が戦争という主題に挑み、無数の戦争が行われたが、孫子の兵法は今なお驚くほど適切である。毛沢東語録に書かれた戦略・戦術方針は孫子の兵法を一語一語辿っているかの如くである。ナポレオンの征服戦争における秘密の武器は孫子の兵法だったとも言われている。そして何と、David Sirlinによる競技ゲーム読本「勝つ為に戦う」も孫子の兵法をだいぶ下敷きにしているそうだ。

以下の数章は孫子の兵法を私なりに訳して言い換えたものだ。兵法には13の章があったがこちらは7章仕立てである。小さな問題は統合し、いくつかの問題は省き、独自の章を2つ加えた。孫子の兵法を今日の競技ゲームにいかに適用すべきか、実例を挙げながらその可能性を探っている。間諜の活用などかなり自由に解釈した部分もあるが、総体としては極めて直接的に当てはめている。

例えば孫子の書いた勝利の五原則を挙げてみよう:

  • 戦うべき時と戦わざるべき時を知る者は勝つ。
  • 優勢と劣勢それぞれの兵の運用を知る者は勝つ。
  • 上と下で意志が統一されている者は勝つ。
  • 自らは備え、備えざる敵を待つ者は勝つ。
  • 優れた能力を持ち、君主に干渉されない者は勝つ。

これを今日の競技ゲームに当てはめるとどうなるか? まず「戦うべき時と戦わざるべき時を知る者は勝つ」である。試合には一時的に不利になる瞬間がある。そうなったら状況が変わるまで時間を稼がなくてはならない。格闘ゲーム”Capcom vs. SNK 2″では「パワーゲージ」というものを貯蓄しておいて使う事ができる。使うとゲージが無くなるまでの間かなり有利に戦いを進められる。相手はゲージが無くなるまでできるだけ逃げ回るべきである。またRTSの”Warcraft”や”StarCraft”では、対戦相手が地形や戦力の集中や時間帯によって一時的に有利になる事がしばしばある。これに戦いを挑んではならない。時間を稼ぐ事でもっと望ましい場所に移ったり、戦力を集めたり、時間帯をずらしたりできるとすれば。待っていれば不利な状況が消え去るという場合、戦わずに逃げるべきである。

次に「優勢と劣勢それぞれの兵の運用を知る者は勝つ」である。勝っている時と負けている時では用いる戦術も変わって来る。旗色が非常に悪い場合、逆転の為にはハイリスク・ハイリターンの賭けに打って出なくてはならない事が多い。チェスで駒の数に差が付いてしまったら、駒を交換しながら相手をじわじわ追いつめている暇は無い。差が大きければ大きいほど、敵のキングを直接討つ必要性は増す。逆に格闘ゲームで大きく勝っている場合、安全策に徹して相手に逆転の機会を与えぬ様にすべきである。相手の体力が残り僅かになったら、素早く出せる弱パンチも、強力だが遅くて隙の大きい攻撃も、両方とも同じ様に致命傷になる。「ほぼ勝っている」という有利な状況になったらリスクの少ない技だけを出すというのは全く理にかなっている。

「上と下で意志が統一されている者は勝つ」孫子が言っているのは将軍の意志が士官や兵卒に正しく伝達され実行されるべきだという事である。実行がまずくては戦略は無駄になる。試合において精神と肉体は「統一されて」いなくてはならない。頭でこの動きが良いと決めたら、肉体はその操作ができるだけの敏捷性と正確さが無くてはならない。”Warcraft”でユニットを細かく動かすのも、テニスで技量冴え渡るバックハンドを決めるのも、”Quake”でロケットランチャーを命中させるのも、「ストリートファイター」で難しいコンボを決めるのも、みなその動きを正確に実行できなくてはならない。

そして「自らは備え、備えざる敵を待つ者は勝つ」である。これは五原則の1つ目とも密接に関わって来る。試合の中でどちらが有利かという流れは変化する。自らは敗北の危険を冒さず、相手の致命的なミスを、あるいは自分に流れが来るのを待ってから攻撃に移る者は賢明である。

例えばFPSの”Counter-Strike”では、「テロリスト」チームのプレイヤーは爆弾を仕掛けなくてはならない。仕掛けられる場所はマップ上に2ヶ所ある。「カウンターテロリスト」チームはそれを阻止せねばならない。カウンターテロリスト側は遮蔽物を利用したり、狙撃手を配置して防御態勢を取る事ができる。守りが鉄壁になったらもはやマップ上を走り回って敵を捜す必要は無い。テロリスト側が制限時間内に爆弾を設置しなければカウンターテロリスト側の勝ちである。この有利な状況では、カウンターテロリスト側はじっと待ってテロリスト側が攻撃して来るのを待てばよい。テロリスト側はどうにかしてこの状況をひっくり返そうとする。基本的な手は2つあり、1つは防御態勢が無い方の設置場所に向かうという方法である。カウンターテロリスト側はそちらに援軍を送らねばならなくなる。もう1つは手榴弾(炸裂弾、閃光弾、煙幕弾など)を使って一時的に敵陣を混乱させるという方法である。

またチェスからも例を引こう:

驚いた事に、カパブランカは自分からは動こうとせず待ちに徹していた。そして結局、相手が悪手を指して2つ目のポーンを失いそのまま決着した。「なぜ駒の優位を活かして攻めなかったのですか?」勇気を振り絞って聞いてみた。彼は鷹揚に笑いながら言った。「待つ方が得だったのさ」

—ミハイル・ボトヴィニク、第6代チェス世界チャンピオン

そして最後、最も面白い指摘である。「優れた能力を持ち、君主に干渉されない者は勝つ」孫子は市民の倫理と軍隊の倫理の違いについて言っている。人情と正義は国家の美徳なれど、軍隊の美徳にあらず。軍隊は日和見で融通無碍でなくてはならない。国家は日常の為の原則と前例を作らねばならない。戦争は切迫した非日常である。戦いに勝とうとすれば、利のある手段は何であれ即座に実行せねばならない。

これこそ「勝つ為に戦う」の論点である。君主に邪魔をさせてはいけない。勝ちたいなら、尊敬されようと思って戦ってはいけない。後でその戦術を解説しようと思ってはいけない。「せこい」という誹りを避けてはいけない。対戦相手と友達になろうと思って戦ってはいけない。友達を作るのは市民の倫理であり、それに戻るのは試合が終わってからだ。試合の最中は相手の嫌がる事をせよ。苛立たせよ。怒らせよ。全ての動きを返り討ちにせよ。相手の不意を突いて奇襲せよ。相手を叩き潰せ。勝ちたいなら、片手を後ろに回して戦ってはいけない。試合の外からの圧力に屈するな。試合の最中は軍隊の倫理だけが存在する。勝ちたいなら、勝つ為に戦え。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(9)

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スポーツマンシップ

勝つ為に戦うと聞くと、 スポーツマンシップを顧みないという意味に取る人がいる。全く反対だ。一流のプレイヤー達は素晴らしいスポーツマンである。スポーツマンシップの条件の1つは負けても喚かない事だ。「勝つ為に戦う」では敗北を学びと成長の機会として捉えている。顔を真っ赤にして対戦相手に文句を付けたり、「実力の無い雑魚に負けた」と陰で呟いていてはそれは達成できない。

良いスポーツマンになるという事は、上品に勝ち、試合のエチケットを守るという事だ。試合の前には一礼や握手をしたり、「よろしく」と言ったり、とにかく相応しい振る舞いをする。勝って満足しても、礼儀と節度を守る。そうすると他の人々にも良い影響を与える。審判も人間だ。態度の悪いプレイヤーには細かい違反を指摘したくなる。他のプレイヤー、練習相手、チームの仲間、秘密情報の持ち主などもスポーツマンには良くしてくれるだろうが、錯乱者や馬鹿にはそうではなかろう。

ある者は言う。なぜ対戦相手に向かって「人種差別主義者」などの罵倒をぶつけてはいけないのか? 対戦相手の靴に唾を吐いたり、胸をどついたり、脅迫してはいけないのか? 結局のところ目的は、あらゆる合法的な手段を駆使して勝つ事だろう? そう言ったじゃないか? まず指摘しておきたいのだが、それらの手段は大会においてしばしば禁止されている。次に、それらは先に述べた友好の原則に反している。第三に、そもそもそれに戦略的なメリットは無い。私は馬鹿でございますと喧伝している様なものだし、悪い雰囲気が付いて回るに相違ない。

とは言え、実力者の中にもそういう汚い手を使うプレイヤーが少しはいる。大会の規則に違反しない範囲で他のプレイヤーを物理的に脅したり、罵倒や威嚇を浴びせたりする余地は存在する。事前にネット上でゴミの様な話を書き散らすのもおおむね合法だ。彼らはいじめっ子になるのが得意なのかも知れない。中にはそういう手が有効な相手もいるだろう。しかし総体としてその代償は余りに大き過ぎ、勝つ為の戦略としては支持しかねる。

対戦相手を怒らせたいなら、ほとんどの場合ゲーム内にその手段がある。相手を苛立たせたり挑発する様なプレイスタイルは色々ある。相手が防御一辺倒に構えて攻撃を待っていたら、こちらも防御に徹する。相手は計算が狂う。あるいは明らかに無意味な技を繰り出して余裕を見せつけ、相手を「挑発」する事もできる。これらはゲーム内でやる限り、全て善良かつ公正である。これはスポーツマンとしてどうこうという次元には関わって来ない。戦争に卑怯も何も無い。

対戦相手を脅したいならそうすれば良い。しかしもっと礼儀正しく、スポーツマンシップに則ってその目的を達する事もできる。最上の手段は大会で優勝する事だ。次の試合で当たる相手は震え出す。試合前にちらっと見やり、「お手柔らかに」と言ってやれば、相手は圧倒されて羽根の様に吹き飛ばされるだろう。試合を完全に支配しているプレイヤーは「恐怖のオーラ」をまとう。青白いオタクが対戦相手を恐怖させるという事態が起きる。彼は”PhantDan09″、あるいは他の名前でもいいが、有名な大会の優勝者だったのだ! 恐怖のオーラがあれば、本来はとても通用しないトリックが通し放題になる。何をやっても相手は裏を疑ってしまうからだ。恐怖のオーラの主が隙を晒している様に見えたら、もしかしたらそう見せかけているだけかも知れない。ちょっと様子を見よう……と思っている間に負ける。優れた戦いと勝利を通じてひとたび恐怖のオーラを身につけたら、大して効果のない口先の脅しを笑い飛ばせる様になる。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(8)

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チートについて

勝つ為ならこうした手段も使うべきかとしばしば問われる:

「StarCraftでマップハックツールを使うのは? パケットインターセプターは? マクロで呪文を速く唱えるのは? あるいは単に対戦相手の向こうずねを蹴っ飛ばすのは?」

「勝つ為に戦う」の偉大な点の1つは、それが計測可能な自己研鑽の道である事だ。勝つ為に戦う道のりにおいて、我々は冷たく厳しい勝敗という道案内を得る。私は勝利も敗北も、正式な大会という文脈で捉えた場合のみ意味があると考えている。対戦相手の向こうずねを蹴り飛ばすのはゲームの範疇を超えているし、まともな大会なら決して許されない。

同様に、違法なダウンロードサイトから手に入れたサードパーティハックツールは決してまともな大会で合法化されない。これらは技術的には勝利の助けになるだろうが、私が述べている継続的な自己研鑽の道からは外れる。これらは大会のルールに反している。勝つ為には大会で合法なあらゆる手段を用いるべし。もしどこかの、参加者全員にマップハックツールの使用を認める様なおかしな大会に出るというならそうするがよい。しかしそれは通常ならざる別バージョンのゲームを遊んでいるという事だ。余計なルールを加えないのは皆で同じゲームを遊ぶためである。理性あるプレイヤーなら、いかなるゲームであれ「ゲーム外からのチート無し」を標準ルールの一部と見なすであろう。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(7)

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何を禁止すべきか?

これは少々ややこしい問題だ。前の節ほど明瞭ではない。この世の全てを禁止せねば気が済まないプレイヤーが世の中には大勢いる。雑魚は自分を負かす戦術やテクニックは全て「せこい」と断じ、従って禁止すべきだと考える。実際のところ、本当に禁止すべきものは非常に少ないのだ。

大会で何が禁止されるべきかという本題に入る前に、まずゲームの流通形態に関して述べておきたい。これによって禁止すべき物も変わって来る。1つ目の形態は、ゲームがリリースされたらそれきりという物だ。プレイヤーは今あるゲームで遊ぶしかない。もう1つは後からパッチが1つか2つ出て、深刻なバグやバランス上の問題を修正してくれる物だ。この2つはどちらも今あるゲームで遊ぶしかないという点で、本質的に同じカテゴリに入る。そして私が若い頃にはこのカテゴリしか無かった。

オンラインゲームは新たな形態をもたらした。Blizzard(“StarCraft”、”Warcraft 3″、”Diablo”、”World of Warcraft”の開発元)は”battle.net”という無料のオンライン対戦サービスを自社ゲームに提供している。全ての対戦ゲームはこのサービスを通すので、Blizzardはゲームがどの様に遊ばれているかに関して膨大なデータを収集できる。ゲーム時間はどれくらいで、どの戦術が上手く行き、どのマップが遊ばれているか、などなど。この会社はゲームをリリースした後も数年間に渡ってパッチでバランスを調整し続ける。

いわゆるMMO、”EverQuest”や”World of Warcraft”などはゼロサムな競技ゲームではないが、こちらも定期的にパッチが当てられている。プレイヤーは毎月料金を支払っており、言わばゲームを改善する為の巨大なチームを財政的に支えているわけだ。

リリース後にパッチで根本的な改善を続けるという考え方自体は良い面がたくさんある。しかし同時に、バグがあったりバランスの調整できていないゲームをリリースして後から直せばよいという風潮も生んだ。この種のゲームのプレイヤーと、「変化しない」ゲームのプレイヤーとでは、ゲームの改善や禁止事項の導入に関しての態度が異なる。我々の様なゲーマーにとって、禁止事項の導入は緊急避難的な非常措置だ。オンラインゲーマーにとっては、ゲームバランスの変更は日常茶飯事である。バグの修正も同様だ。

この「定期的にパッチが出る」方式はプレイヤーの側に怠慢をもたらしてもいる。今あるルールで最大限に頑張ったとしてもあまり報われない。その戦術で勝ったとしてもどうせパッチで修正される。ゲームに足跡を残す事はできるとしても、勝ち続ける事はできないのだ。MMOでは更に悪く、アカウントを永久に削除されてしまう可能性がある。ルールの範囲内で開発者の意図せざるプレイをしたというだけの理由でだ。

 

禁止事項の規準

禁止事項は施行可能・定義可能・合理的でなくてはならない。

 

施行可能

そもそも検出が難しい戦術もある。検出が難しいものに対して罰を課す事はできない。例えば格闘ゲームにおいて、本来無敵でない技を無敵にする裏技があったとする。しかしそれが使われたかどうか、毎回検出するのはほぼ不可能だ。あるいはRTSで、ユニットのHPを少しだけ増やす裏技があったとする。しかし実際のゲームでそれが使われても検出はやはり不可能だ。もし大会に禁止事項を加えたいなら、それは容易に検出可能であるか、あるいはそもそも起きない様にしておかなくてはならない。

また格闘ゲームにおいて、本来そうでない技がガード不可能になってしまったとする。ただし1/60秒以内のタイミングで繰り出した場合だけだ。果たしてそのプレイヤーは「裏技」のタイミングで技を出したのか? あるいはその1/60秒後に出したのか? もしかしたら単なる幸運で裏技のタイミングになってしまったのかも知れない。これに罰を課せるだろうか? こんな規則を実施できるか想像してみよう:「原則として技Xは使ってよいが、1/60秒間だけXを使ってはいけないタイミングが存在する」

 

定義可能

禁止事項は「完全に定義可能」でなくてはならない。仮に格闘ゲームで、ある5つの技を繰り返し繰り返し使うのが最上の戦術だったとしよう。そしてその行動が「タブー」になり、プレイヤーが禁止を望んだとしよう。この場合、何を禁止すれば良いのかという明確な定義が無い。そのパターンを3回繰り返すのは可能か? 2回なら? 1回だけなら? 5つの技のうち最初の4つだけを繰り返したら? それは合法か? こうなるとゲームは誰が「タブー戦術」にギリギリまで近づけるかという競争になってしまう。そして恣意的な禁止の文言に抵触したらアウトだ。

あるいはまたFPSにおいて、「キャンプ」行為(同じ場所にずっと留まる)を禁止するという考え方がある。これに関してプレイヤー間の友好的な合意は必ずしも必要ではない。これは一応施行可能である。サーバー側でプレイヤーの位置を監視し、規則を破った者に罰を課せばよい。問題は「キャンプ」をどう定義するかである。仮に同じゾーンに3分以上留まる事がキャンプと見なされ、キャンプが実際に最上の戦術だったとしたら、今度は同じゾーンに2分59秒留まるのが最上の戦術になってしまう。これはもう滑りやすい坂と同じで、禁止されるキャンプ行為に非常に近いキャンプ的戦術が常に横行する。

完全に定義可能な要素の例もある。カードゲームのM:tGにおいて、あるカードが強力過ぎると分かったらそれが禁止される事がある。「このカードは使ってはいけない」というのは完全に定義可能である。誰かがそれを「ほどほどに使う」という心配は無い。格闘ゲームでは同じ動きを「ほどほどに繰り返す」事が可能だった。あるいはFPSで2分59秒だけ「ほどほどにキャンプする」事もできた。カードは分離可能な要素であって禁止は実行可能である。

 

合理的

ここに問題の全てがある。何かを禁止するのが合理的でなければ、そもそも施行可能性や定義可能性を考える必要自体が無い。競技ゲームにおける教訓とは、禁止を合理化できる理由はほとんど無いという事だ。

あるバグがプレイヤーに小さな有利を与えてしまったとしても、禁止の理由にはならない。実際これはよくある事だ。ほとんどのプレイヤーはバグを利用している事自体に気付かない。単にそれを「裏技」と考えている。ゲームに重大な影響を与えるバグでさえ必ずしも禁止すべきとは限らない。それによってゲーム性が変わるだろうが、ゲームというのは自己修復の性質があり、ほとんどの手段には対抗手段(しばしば他のバグ技)があるものだ。

“Street Fighter Alpha 2″(北米版ストZERO2)には立っている(しゃがんでいない)相手に対してだけ大ダメージを与えるオリジナルコンボがあった。開発者はそれを見てからしゃがみガードできると意図していたに違いないのだが、実は上手くやると相手はそれをガードできない。これはゲーム性に大きな影響をもたらした。立っているだけで危険なのだ。しかし、この技が普及した後でもなおゲームは素晴らしかった。一見すると、立ち上がって攻撃に行くのは危険過ぎる様に見える。しかし綿密な研究の結果、攻め手は相手のオリジナルコンボにそれを破る技を差し込める事が分かった。要するに、バグがあってもゲームは成立した。この画期的な戦術は発明者の名を取って”Valle CC”と呼ばれた。Alex Valleについては後に述べる。

他の例として、「スーパーパズルファイターIIX」を挙げる。これは落ちものパズルである。自分の領域に様々な色のブロックが降って来るので、同じ色を3つ並べて消し、相手の領域を埋める。相手の領域が一杯になれば勝ちだ。

パズルファイターにもゲーム性の変わるバグがあった。レインボージェムを使うと自分の側にあるブロック1色を全て消せる(並んでいなくても)。そしてブロックを相手の側に送り込める。本来、これは普通にブロックを並べて消した場合より相手に送るブロックがずっと少ない筈だった。つまりブロックを処理できる代わりに相手への攻撃は減るというトレードオフだった。ところがここにバグがあり、裏技で普通に消した場合より多くのブロックを相手に送り込めてしまった。レインボージェムは「その場凌ぎ」でなく、ゲームを終わらせる大岩と化してしまったのだ。相手がこの裏技を使った場合、同じ技を使わずに勝つのはほぼ不可能である。

しかし裏技を知っているプレイヤー同士で戦うと、ゲームは相変わらず面白い。自分のレインボージェム技で相手の技を打ち消せるからだ。各プレイヤーは落ちて来るブロック25個ごとにレインボージェムを手に入れるので、双方ともだいたい同じタイミングでそれを手にすると予測できる。あるいは相手のレインボージェム技に合わせて大量のブロックを普通に消す事もできる。こうすると相手の攻撃をいくらか相殺し、残りが降って来るので自分の領域がかなり埋まる。そしてパズルファイターの場合、自分の側に沢山ブロックがあればそれだけ相手に撃ち込む弾丸が増えるのだ。狡猾なプレイヤーは相手にレインボージェムを撃たせ、蓄えた弾丸で逆転勝利を狙う。結局の所、バグはゲームを変えたが壊しはしなかった。明らかにこれは禁止する必要が無い。

バグや戦術がゲームを壊しているかどうか、どうやったら分かるだろうか? 簡単な方法は、それがゲームを壊していないという前提でひたすら遊んでみる事だ。99%の場合において、その戦術が優れていればいるほど、対抗戦術やより優れた戦術が見つかるものだ。熟慮を経ない禁止は雑魚のする事である。雑魚はValle CCやレインボージェム技に対抗する術を探さない。また禁止事項を入れると、本来そのままで成立していたゲームに人工的なルールを加える事になってしまう。更に1つ何かを禁止すると、次から次へと雪崩の様に禁止事項が持ち上がる。もしゲームを壊す様な戦術を見つけたら、それで大会に出て勝つ事をお勧めする。結果、ゲームがその戦術だけに収斂してしまう様なら禁止を検討すべきである。実際にそうやって勝ち、その戦術がゲームを壊していると証明できた例を私は知らない。

ゲーム開発者に一言。リリース後にバグを修正できるならすべきである。しかし、プレイヤーは「不公平な」戦術を使う感覚を楽しんでいる。それだけで大会に勝ててしまうほど強くなければ、「不公平な」だからと言ってそれを取り上げるのは間違いかも知れない。

 

即座に禁止すべき不具合

繰り返しテストせずとも即座に禁止すべき事項もある。例えばゲームをクラッシュさせたり、対戦相手の画面を真っ白にしたり、キャラクターやユニットや資源が消えたりする様な不具合である。ゲームを続行不能にする、あるいはゲームが成立しなくなる大きな不具合は禁止に値する。また全てのプレイヤーに使えない不具合も同様だ。2人プレイ用ゲームにはしばしば、2P側でしか使えないバグ技が存在する。この種の戦術は禁止すべきである。たとえそれほど強力でなかったとしても、全てのプレイヤーがアクセスできないというだけで十分な理由になる。

 

「強過ぎる!」

非常に極端で珍しいケースとして、「強過ぎる」要素が禁止される事もある。プレイヤーからの禁止要望はこれが一番多く、そしてその殆どが馬鹿馬鹿しい。ある戦術が「強過ぎる」から禁止するというのは全く理にかなっていない。それはゲームを「2番目に強い」戦術へと収斂させるだけだ。それでゲームが良くなるとは限らず、往々にしてむしろ悪くなる。

「強過ぎる」要素を禁止すべきは、それがあまりに甚だしく、ゲームから他の戦術を全て追放してしまう様な場合である。非常に珍しいケースだが、「最も強い」に留まらず「他の全てより10倍強い」要素を排除するとゲームが改善される事もある。これは非常に珍しいという事を強調しておきたい。大抵の場合は、禁止を求めるプレイヤーがそれ以外の戦術をちゃんと理解していないだけである。本当に強過ぎるならそれを使って大会を連覇すべきだ。ごく稀に本当にそれが正しく、1つの要素(バグにせよ仕様にせよ)に収斂してしまうほどゲームが浅いという事もある。その場合、最善の対処はそのゲームを放棄して他のゲームを遊ぶ事だ。世の中には良いゲームが沢山ある。

極端に稀なケースとして、強過ぎるという主張が正しく、かつゲーム自体は救うに値し、かつその超強力な戦術を除けばゲームが10倍も良くなる場合もある。その時初めて禁止は考慮に値する。その場合でさえ、研究が進み、上級者と大会運営にその戦術が禁止されるべきだという理解が広まる時間は必要だ。公式の禁止の前に「暗黙の禁止」が導入される事もある。以下に例を挙げよう。

 

「X」の2例

(訳注:この本は2006年に書かれている)

「スーパーストリートファイターIIX」、あるいは「X」は格闘ゲームにおける禁止事項の良い例だ。本書執筆現在、このアーケードゲームは稼働開始から10年経ってもまだ大会が開かれている。実際、東京だけで週に1〜2回の大会が開かれているのだ。このゲームは非常に成熟している。そしてバランスに関する10年間のデータがある。

ストリートファイターにはしばしば特定のコマンドを入力すると使える「隠しキャラ」が存在する。強いキャラの時もあれば弱い時もある。時には隠しキャラがゲームで一番強いという事もあり、初代「マーヴル VS. カプコン」がそうだった。凄い。そういうゲームなのだ。それに慣れよう。ところが「X」は隠しキャラを導入した最初のストリートファイターシリーズであった。そしてそのキャラは恐ろしく強い「豪鬼」だった。ほとんどのキャラクターは豪鬼に勝てなかった。「勝つのが難しい」のではない。絶対に、絶対に、絶対に勝てないのだ。豪鬼は「壊れて」いた。このゲームは斬空波動拳をきちんと扱える様にできてはいない。豪鬼はただの最強ではなく、他のキャラクターより少なくとも10倍は強かった。これは非常事態だ。アメリカの上級プレイヤーは即座にこれに気付き、このままでは全ての大会が豪鬼同キャラ対戦のみになると予期した。かくして豪鬼はほぼ異論無く禁止キャラとなった。私はこれは正しい決断だったと思う。

ところが日本では、豪鬼が大会で公式に禁止される事は無かった! こちらでは「暗黙の禁止」が導入された。つまり豪鬼は強過ぎてゲームを壊すのでので使ってはいけないという暗黙の了解である。プレイヤー達は非公式にそう合意した。中には大会で豪鬼を使う者もごく少数ながらいたが、上級プレイヤーの中にはいなかった。それをやるのは下手なプレイヤーだけで、神キャラクターを使って負けるのである。これは屈辱だ。そして観ている者は満足だ。これはアメリカにおける「公式の禁止」とは違う、興味深いやり方だ。

ここまでは良い。しかし日本ではもう1人のキャラクターについて「暗黙の禁止」が導入されかかっている。私はこの例を境界線として提示する。「強過ぎる」から禁止するという事に関して、これはちょうど合理と非合理の境界線上にある。これより弱いものは禁止に値しない。それゆえ、この例は何がゲームにおいて許されるかという指標になる。

問題のキャラクターは「Sサガット」である。Sサガットも豪鬼と同様の隠しキャラ(あまり隠れていないが)である。Sサガットは豪鬼とは違い、斬空波動拳の様な壊れた技は持っていない。Sサガットはしばしばゲームにおける最強のキャラとされる(豪鬼はもちろん除く)。だがトッププレイヤーの間でもその点については議論がある。恐らくどんな上級者もSサガットを上位3キャラ以内に位置づけるだろうが、それが最強だという広範な合意は無い。では何故、それを禁止しようなどと思うのか? 対策を知らない雑魚の集団が反射的に禁止を叫んでいるのだろうか。

そうではない。日本のトッププレイヤーの間には、Sサガットを使わないという暗黙の了解がある様だ。何故なら、Sサガットがいない方がゲームの多様性が大きく広がるからだ。Sサガットは基準によっては2番目に強いキャラクターに過ぎないが、全キャラクターの半数を簡単に封殺できてしまう。それらのキャラクターはSサガットと戦うのが精一杯で、勝つのは殆ど無理だ。同格の上位キャラクターならばSサガットと戦ってもきちんと試合が成立する。そしてほぼ全てのキャラクターは、Sサガット以外の上位キャラクターに対して勝利の目があるのだ。つまりSサガットを大会で使用可能にすると、春麗やケンなど多くのキャラクターが事実上使用不可能になってしまう。

ゲームの黎明期にこうした禁止を申し立てたとしても、それは正当化できないだろう。大会によって更にテストするのが妥当だ。しかしこのゲームは10年もテストした。大会がSサガット同キャラ対戦だけで埋め尽くされてはいない。しかしSサガットを倒せないキャラクターは明らかになり、それらはアメリカでは滅多に使われなくなった。一方日本では使われており研究が進んでいる。日本ではSサガットが暗黙裏に禁止されているからだ。これによる多様性の増加はSサガットの欠落を補って余りある様に見える。禁止は妥当だろうか? 正直な所、完全にそうだとは確信できない。しかし合理的判断の範疇には収まっていると思う。判断の基盤となるデータが10年分もあるのだから。

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翻訳記事:勝つ為に戦う(6)

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勝つ為にどこまでやるべきか?

他のソフトウェアと同様、ビデオゲームにもバグがある。非電源ゲームでさえ、デザイナーの予期しない相互作用が見つかる事もある。もし上級者が勝つ為にあらゆる事をするとしたら、こうした不具合も利用するだろうか? 答えはイエスだ。プレイヤーはデザイナーの意図を酌んだりしない。どの技が「フェア」でどの技がそうでないか、どの技が仕様でどの技が不具合かなど一切気にしない。気にするだけ無駄だ。プレイヤーが気にするのは、どの技が勝利に繋がりどの技がそうでないかだけである。

不可解な事に、世の中にはプレイヤーがデザイナーの意図を神聖視してくれると思っている様なゲームもある。そして実装上のルールとは別に、意図された通りのプレイをしてくれると期待している。これは根本的に間違った考え方だ。そしてそういう間違いをしているMMOは非常に多い。”World of Warcraft”を例に挙げよう。プレイヤーは街中で屋根に上がる事ができる。またプレイヤーは街中で他のプレイヤーと戦う事ができる。しかし屋根の上にいる時に他のプレイヤーと戦ってはいけないのである。やろうとすると警告を受ける。実はこれは2005年11月3日21:44(PST)までは合法であり、その後違法と見なされる様になったのだ。またプレイヤーは同じモンスターを毎日毎日倒し続ける「ファーミング」でゲーム内通貨を稼ぐ事ができるが、「やりすぎ」てはいけない。一線を越えるとファーマーと見なされアカウント削除の目に遭う。更にモンスターの視線を遮るとなかなか追って来れなくなり、その隙に仲間に倒してもらう事ができる。これは上手なプレイか、それともアカウント停止案件か? アカウント停止案件である。モンスターに追われた時、湖に飛び込んで向こうが諦めるまでやり過ごす事ができる。これは上手なプレイか、それともアカウント停止案件か? こちらは上手なプレイである。こうした恣意的なルールの網は「雑魚」の作るお手製ルールと大して変わらない。

私はこの点に関して注意を喚起しておきたい。良い競技ゲームはこの様な物であってはいけない。合理的ゲームはルールをきちんと組み込み、違法な行動はそもそもできない様にしておくべきである。合理的なゲームであっても、大会ではしばしば特別ルールが用いられるが、その場合でもルールは可能な限り短く明瞭なリストにまとめる。世の中には「楽しみ」のためだけのゲームもある。そういうゲームは「勝つ」事が許されなかったり、まともな大会を開く事が不可能である。ゲームとしては楽しいだろうが、この本で扱う範囲からは外れる。

それではプレイヤーは勝つ為にどこまでやるべきか? プレイヤーは、大会において合法な行動全てを駆使して勝利の可能性を最大にすべきである。どの行動が大会で禁止されるべきかという問題はまた後の節で論じる。ここでは次の様に結論しておく:大会でやって良い事はゲームの内である。以上。誰かがバグを利用すると、他のプレイヤーが「チート」だとか「卑怯」だと文句を付けるが、これは本人は全く悪くない。彼は使える手段全てを駆使して勝利を目指しているのであり、パンチを引っ込める義務は無い。苦言は大会の運営(あるいはプレイヤーコミュニティ)に対して向けるべきである。問題は大会でその行動が許されるかどうかだ。ここを間違えているプレイヤーは非常に多い。

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翻訳記事:勝つ為に戦う(5)

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敗北から学ぶ

敗北はゲームの一部である。一度も負けた事が無いとすれば、それは一度も試された事が無いという事だ。それでは成長しない。敗北は学びに繋がる機会である。だが敗北は苦しい。感情が論理的考えを押しのけてしまう事もある。以下に列挙するのは「負け犬」になる姿勢だ。これらを口にする様になったら赤信号である。

 

「少なくとも俺は正々堂々戦った」言い換えれば「あいつはせこい!」

これは圧倒的に多い負け犬の遠吠えである。これについては先に詳述した。負け犬は空想上の倫理的優位を拵えるため、自分の「正々堂々」にしがみつく。どの行動ができてどの行動はできないかを決める個人的な戒律だ。言うまでもなく、どの行動が可能かはゲーム自体が決める事であり、上乗せの戒律は無駄で余計で勝利の邪魔だ。負け犬は対戦相手が彼の戒律を破ったかどで文句を言う事もある。彼は常に、世界中が自分の戒律に同意し、それを破るのは邪悪なアウトカーストだけだと信じている。こうした「正々堂々」への宗教的情熱に理由を見出すのは難しい。ある種のプレイヤーは何が何でも「勝者」でいたがるものだ。敗北の海のただ中にあってさえ、彼は自分の戒律を奇妙に歪めて自分を何とか「勝者」に分類するだろう。

 

「負けたけど相手は弱い」

これは最もおかしな抗議だ。自分より弱いと思っている相手に負けると、「相手は弱い」という言い訳が用いられる。彼は自分が非常に優れたプレイヤーで、この様な雑兵に負けたくらいでは何も証明されないと言っているのだ。彼は往々にして相手の「弱いプレイヤー」が持っている弱点を数え上げ、「ワンパターンだ」とか「読み合いが弱い」といった台詞を吐く。しかし相手を貶めれば貶めるほど、彼自身もっと惨めになる。相手がワンパターンな戦術に頼っているとしたら、それを打ち破れなかった自分はどうなのだ?

この傾向は取り除かねばならない。恐らく相手を責めるのはプライドのゆえだろうが、失敗から学ぶ機会を奪ってしまう(それに他のプレイヤーにも嫌われる。気にしないかも知れないが)。原則として、勝つだけの力量を持ったプレイヤーには相応の敬意を払わなくてはならない。プレイスタイルにどんな瑕疵があろうとだ。認めたくないかも知れないが、こうした「弱い相手」はしばしば実際には自分より強いのだ。相手が自分より弱いなら勝たせてはいけない。自分の失敗から学び、ライバルに追いつくべし。どちらにせよ問題は自分自身の中にある。相手のせいではない。

 

「俺は弱いよ、やるまでもなかろうよ」

今度は逆のパターンである。自信がありすぎるのではなく無さすぎるのだ。この台詞は負けた後の悲しさからしばしば出て来る。それはまだ良い。その場に留まって挑戦を続けるべし。問題なのは、試合の前や最中にこれを言う場合だ。自己評価の低さは自分を本当に弱めかねない。中には過去の敗北や、生活上の不運を引きずってしまう者もいる。そしてゲームに対しても負け犬根性で挑む。客観的に見れば試合において有利になっている場合ですらだ(例えばM:tGで良いデッキを持って来たとか、格闘ゲームで相性の良いキャラクターを選んだ場合が相当する)。この種のプレイヤーはそうした雑念を振り払い、今目の前にある試合に集中せねばならない。選んだキャラクターなり陣営なりデッキなり、あるいはゲームの技量なり知識なり、何らかの優位を持っているならそれに集中すべきである。そして優位性を持っていないなら、それこそもっと頑張らなくてはならない。冷静にならなくてはならない。逆境に打ち勝たねばならない。そして目にもの見せてやれ。自分を信じなければゲームには勝てない。信じれば勝てる。

 

「糞ゲー/運ゲー/つまんねー」

公正を期す為に言っておくが、世の中には本当に糞なゲームや偶然性が強過ぎるゲームやつまらないゲームもある。その場合はさっさとそのゲームを止めて時間を無駄にせぬ方がよい。しかしこの種の抗議はしばしば完璧なゲームに対しても向けられる。「糞ゲー」に見えるのは、そのゲームを素晴らしい物にしている本質が見えていないだけかも知れない。

「運ゲー」は少々話が複雑だ。ゲームの偶然性が強ければ、それだけ競技性が失われる可能性がある。しかし偶然性はゲームに「楽しさ」ももたらす。通常、この抗議への回答は1つしか無い。同じプレイヤーが安定して勝ち続けるかどうかを見よ。例えばM:tGは偶然性が強過ぎるという議論もある。しかし国際大会で入賞するのはいつも同じ顔ぶれだ。本書執筆時点での世界最強プレイヤー、Kai Buddeは大会に毎回出て来る。使うデッキは他のチームメイトと全く同じである。それでもKaiが勝つ。どうやらこのゲームはそれほど「運ゲー」ではないようだ。

ポーカーにも同じ事が言える。個々の手は偶然による所が大きいが、大会で優勝して賭け金をさらって行くのはいつも同じ面々だ。

(訳注:北米で最も人気のあるポーカーのルールは、日本で普及しているルールに比べ実力に左右される割合が大きい)

「つまんねー」というコメントは頭を使わない。これは基本的に、負けた責任をゲームの欠陥のせいにしているだけだ。無論ゲーム自体が欠陥を抱えている場合もある。しかしこのフレーズを使っていると、負けた言い訳をしてそこから学ばないという事も覚えておこう。

こうした負け犬根性に陥らない様に気をつけよう。負けたのは自分の責任だ。被害者ぶるのは負け犬の道である。勝つのは負けを受け止め、自分を磨こうとする者だ。

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翻訳記事:勝つ為に戦う(4)

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雑魚病

ここまでは当たり前の、ありふれた事ばかり論じて来た。長い道のりは最初の一歩が最も難しい。ゆえにまずはぬるま湯に浸かって貰った。ここからは違う。ここから先は勝負の冷たく厳しい真実に向き合わねばならない。ここが最も難しい所だ。不安な気持ちになるかも知れない。心の防衛機能によって、この本は間違っていると感じるかも知れない。だが保証する。この部分において、私は聖なる真実を直接告げる。

 

雑魚とは何か

「雑魚」という言葉は様々な意味を持つ。そのうちの1つは何か(例えばゲーム)があまり上手でない人間の事だ。この定義に従えば、我々はみな雑魚として始まる。それを恥じる事は全く無い。だが私はそれとは違う意味で「雑魚」という言葉を使う。雑魚とは、自分で作った規則に縛られて満足に戦えないプレイヤーの事だ。雑魚の作った規則などゲームは関知しない。雑魚は「勝つ為に戦う」事をしない。

誰も皆、最初は弱いプレイヤーとして始まる。自分のしている事を理解するまでには十分な練習が必要だ。だがここに重大な誤解がある。ただゲームを続けて「練習」するだけで、誰でもトッププレイヤーになれるという誤解だ。現実には、「雑魚」はまず多くの心理的障壁を乗り越えなければ先へ進めない。雑魚は戦う前に負けている。いやゲームを選ぶ前に負けている。何が問題なのか? 「勝つ為に戦う」事をしないからだ。

雑魚はこの言明に反発するだろう。自分はちゃんと勝とうとしている。しかし違う。雑魚は複雑な、虚構の規則を自分に課し、まともに競技に参加する事さえできていない。無論これらのお手製ルールはゲームによって異なるが、雑魚の性質は一緒だ。私がキャリアを築いた格闘ゲーム、ストリートファイターを例に取って説明しよう。

ストリートファイターにおいて、雑魚は様々な戦術や状況を「せこい」と断ずる。「せこい」は雑魚のお題目だ。投げを仕掛けるのはせこいと言われる。投げとは特殊な攻撃で、相手を掴んでダメージを与えるものだ。他の攻撃はガードしていると防げるのだが、投げは防げない。そもそも投げが存在するのは、ずっとしゃがんでガードしている相手にもダメージを与えられる様にする為だ。ゲームが成立する為には基幹部分に投げが組み込まれていなくてはならない。投げは理由があって存在している。しかし雑魚は自前の原則を築き上げ、ガードしている間はいかなる攻撃も完全に防げるべきだと考える。雑魚はガードを無限のマジックシールドだと思っているのだ。何故か? 考えるだけ無駄だ。そもそもの始めから馬鹿馬鹿しい概念なのだ。

いわゆる雑魚が、対戦相手を5回続けて投げる光景にはまずお目にかかれない。何故だろうか? それが勝利の確率を高める戦略上の最適手だったとしても? ここで最初の衝突に出会う。雑魚は自分の作り上げた心理的規則の範囲内で「勝つ為に戦う」のだ。これらの規則は信じ難いほど恣意的である。もし相手が遠くから飛び道具を浴びせ続け、距離を保って近づかせなかったら? せこい。立て続けに投げを浴びせたら? それもせこい。これは先ほどの例である。あるいは50秒ほど何もせずにひたすらガードしていたら? せこい。最終的に勝ちをもたらす行動はどれもこれも「せこい」と言われる候補である。ストリートファイターは単なる一例に過ぎず、どの競技ゲームでも同じ事が言える。

同じ行動を繰り返し繰り返し繰り返し浴びせる戦術というのは雑魚からの抗議を呼び起こす。そしてそれこそ話の核心である。雑魚はどうしてこんなに見え透いた戦術を打ち破れないのか? その行動への対抗手段を知らないほど下手なのか? あるいはその行動が何らかの理由によりほとんど対抗不可能なのか? もしそうなら、あえてそれを使わない方がよほど馬鹿らしいのではないか? 「勝つ為に戦う」とは勝率を高める行動なら何でもするという事だ。これに気付くのが最強への道の第一歩である。「勝つ為に戦う」ではその様に定義している。ゲームは「正々堂々」とか「せこい」といった規則に一切関知しない。ゲームにあるのは勝ちと負けだけだ。

雑魚は往々にして、全てを犠牲にして勝ちを求めるスタイルは「退屈」だとか「面白くない」とわめく。雑魚が何を目標にしているのかは知らないが、少なくとも本気で勝つ事を目標にしていないのは明らかだ。こちらは違う。勝つという目標は善であり正義であり真実である。誰にもそれを否定させてはいけない。否定する者は力でねじ伏せよ。つまり対戦して勝つのだ。

2つの組を想定しよう。良いプレイヤーの組と雑魚の組である。雑魚は「楽しみ」の為に遊び、ゲームの深淵を探求しようとはしない。最も効果的な戦術を見つけてそれを無慈悲に振るうという事をしない。良いプレイヤーはそれをする。良いプレイヤーは信じ難いほど強力な戦術やパターンを見つける。そして攻略を進めるに連れ、それへの対抗手段を見つけねばならなくなる。最初は対抗不可能に見えた戦術も、往々にしていつかは対抗手段が発明される。無論それを見つけるのは非常に難しい。対抗手段を知っていれば相手はその戦術を使えなくなるが、今度は対抗手段への対抗手段を使える様になる。そして対抗手段を使うのを躊躇うと、相手は再び最初の強力な戦術を通さんとして来る。この考え方については後に詳述しよう。

良いプレイヤーはどんどん上達する。彼らは「せこい」技を見つけて濫用した。そしてせこい技を止める術を知った。そして止める術を止めてせこい技を通す術を知った。そして競技ゲームにおいては非常に一般的なのだが、後から多くの戦術が発見される事で最初のせこい技がフェアに見えて来る。格闘ゲームではしばしば1人のキャラクターが非常に強い戦術を持っている。不公平に見える。よろしい、そのまま持たせておくべきである。時が経つに連れ、他のキャラクターはそれより更に強く不公平な戦術を持っている事が明らかになる。プレイヤーは双方とも試合の流れを引き寄せんとする。チェスのグランドマスターが対戦相手にとって都合の悪い状況を作り出そうとするのと同じだ。

ここで雑魚組の方に戻ってみよう。彼らは先に述べた奥深さについて何も知らない。彼らの主張とは、戦略も何も無く無闇にボタンを連打する方が「楽しい」というものだ。表面的にはこの主張は正しい様に思える。彼らの試合は「激しく、動きがある」からだ。上級者の試合はもっと抑制され洗練されている。だがよくよく吟味すれば、上級者は雑魚には想像もつかないレベルにおいて莫大な「楽しさ」を見出している事が分かる。暴れ回って曲芸をでっち上げる楽しみなど、相手の心理を読み切って全ての行動に対処する楽しみには及びもつかない。

この2つの組が出会ったら何が起きるだろうか? 上級者が雑魚を徹底的に打ちのめす。雑魚が見た事も無い様な、あるいは本気で対抗を迫られた事の無い様な戦術を次々に繰り出す。これは即ち、雑魚は上級者と同じゲームで遊んでいなかったという事である。上級者は本物のゲームを遊んでいた。雑魚は自前の不文律に従ってハウスルールで遊んでいた。

雑魚にはまだ縋る先がある。「実力」について繰り返し語り、自分がどれほど実力を有していて、他のプレイヤー(自分が負けた相手を含む)がそうでないかを論ずる。混乱のもとは何が「実力」かという点である。ストリートファイターの場合、雑魚は往々にしてコンボを実力の指標にする。コンボとは最初の攻撃が当たれば残りもガードできない一連の攻撃である。コンボは極めて精密で難しい。また雑魚によれば単発の必殺技もまた「実力」を要する。ストリートファイターの「昇龍拳」はスティックを前、下、斜め下に動かしてパンチボタンを押すと出る。この操作はコンマ数秒の内に完了しなくてはならない。ある程度誤差も許されるとは言え、かなり正確な入力が必要だ。雑魚に聞けば昇龍拳を出せるのは「実力」だと言うだろう。

(訳注:この本が書かれたのは2006年。ストリートファイターIIは必殺技入力の誤差があまり許されずかなり難しかった。ストリートファイターIVでは簡単になっている)

プレイ自体は上手い雑魚と対戦した事がある。つまりゲームのルールはよく知っており、キャラクター対策もできていて、殆どの局面では正しい判断をしていた。だが心理的規則の網が彼を絡めとり、「勝つ為に戦う」事を阻んでいた。彼が次々に昇龍拳を繰り出す一方、私は「簡単な」技で彼を沈めた。彼は抗議した。「馬鹿の一つ覚えか? 投げばっかりじゃないか」私は彼にアドバイスした。「勝つ為に戦え。難しい技を出すのは目標じゃない」これは彼の雑魚人生において大きな転機だったと思う。彼は敗北から目をそらし、心理的な檻の中で暮らし続ける事もできた。しかし敗北を分析し、自分に課している規則を取払い、次のレベルへと進む事もできた筈だ。

難しい技を沢山出したプレイヤーに賞を出す様な大会には未だ参加した事が無い。また「革新的な」プレイに賞が出るのも見た事が無い(尤もチェスの大会にはしばしば技能賞があり、天才的な一手に賞を出すが)。多くの雑魚が「革新」に囚われている。彼らは言う。「あいつが使うのはみんな既にある戦術だ、大した事ないよ」あるいは「このテクニックを考えたのはXだ。Yはそれは真似しただけだ」よろしい、YはXより100倍も上手いかも知れない。それでも雑魚には知った事ではないのだ。もしYが大会で優勝し、Xは忘れられた歴史となったら彼らは何と言うか? 無論「Yには実力が無い」と言うに決まっている。

革新的な手法を生み出せばプレイヤーコミュニティでの地位は上がるだろう。しかしそれが最終目標ではない。革新は勝利への手段のひとつに過ぎない。最終目標は可能な限り上手くなる事だ。最終目標は勝つ事だ。

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