RFTG Player Interaction (designer’s perspective) | Race for the Galaxy | BoardGameGeek の訳。
『レース・フォー・ザ・ギャラクシー』が広く受け入れられ、ここBGGでも楽しまれていることをとても嬉しく思っています。
しかし、私を非常に驚かせたことがひとつあります。それは、このゲームに「プレイヤーインタラクションがない」と主張する、数々のコメントです。私は、『レース』にはたくさんのプレイヤーインタラクションが存在すると考えているのです。
たしかに、多くのユーロゲームと同じように、このゲームのインタラクションは非常に間接的なものです。直接的なインタラクションを好むプレイヤーが、それを理由にして『レース』を好まないであろうことはよく理解しています。このことに関して異論を挟むつもりはありません。どんなゲーマーにも好みというものがありますから。
もし「『レース』にプレイヤーインタラクションがない」という主張が、単に「『レース』のプレイヤーインタラクションは自分に合わない」という意味であれば、それは問題ありません。しかしいくらかのプレイヤーは、本当にプレイヤーインタラクションがまったく存在しないと考えているように思えます。それはたとえば、『レース』は各人が別々の部屋でプレイでき(たぶん横柄なウェイターがカードを運んできてくれるのでしょう)、たとえそうしてもゲームプレイはまったく変わらないというように。私には、それはばかげたことのように思えます。
その質こそ違えど、『レース』のプレイヤーインタラクションの量は、『プエルトリコ』と同じ程度だと私は考えています。
たとえば『プエルトリコ』では、二人のプレイヤーが結託して「監督」と「船長」を選び、船への荷積みを調整してもう一人のプレイヤーにコーヒーを出荷させたりします。こうすると、そのプレイヤーがコーヒーを「商人」で売却して大金を得ることを阻止できます。
『レース』で、あるプレイヤーが10枚の手札を持っていて、エイリアンの品物を場に持っているとしましょう(この品物を売れば大金を得ることができます)。他の二人のプレイヤーは、7枚から9枚のカードを持っています。エイリアンの品物を持っているプレイヤーは、しばしば「貿易」を選ぼうとするでしょう。なぜなら「開発」と「入植」のいずれが選ばれても、何枚かのカードを使って高価なカードを場に配置し、その後また手札を10枚まで補充できるからです(エイリアンの品物を売却することによって)。そして次のラウンドでは、他のプレイヤーが手札不足に陥ってるにも関わらず、このプレイヤーは潤沢な資産で場にカードを配置することができます。では、他のプレイヤーはこれにどう対抗するでしょうか? 彼らはふたりとも「探検」を選択してカードを補充します。そして、エイリアンの品物を持っているプレイヤーがこの「探検」によってカードを引き、さらに「貿易」によって5枚のカードも受け取り、結果として手札制限である10枚になるまでカードを捨てざるを得なくなるのを見て、彼らは笑うわけです。
たしかに、エイリアンの品物を持っていたプレイヤーは、何かしらを得てはいます(『プエルトリコ』でコーヒーを出荷してVPを得たように、ここでは手札の選択肢を得ています)。しかし、6枚のカード(と品物ひとつ)を失ったことは大きいものです。とりわけ、『レース』におけるコストの幅はカード1枚から10枚ではなく、1枚から6枚ですから、これは『プエルトリコ』で言えば10金を失うことに相当するでしょう。
もちろん、エイリアンの品物を持っていたプレイヤーは、「貿易」の代わりに「開発」や「植民」を選ぶことで、これを防ぐこともできました。しかしこれでは、「貿易」によって得られるはずだった次のラウンドのカードアドバンテージをあきらめることを意味します。
こういった状況は頻繁に起こるでしょうか? 私がプレイするグループ内について言えば、そのとおりです。無駄な仕事をやらせる――これは、早期のカードアドバンテージを得たプレイヤーに追いつくための、基本戦術なのです。
この戦術は、カードをすべて把握し、注意深く場を観察することを要求するでしょうか? そんなことはありません。ある一人のプレイヤーのみがたくさんの手札を持ち、かつ高値で売却できる品物を持っていることにだけ気づけばいいのです(どちらかと言えば『プエルトリコ』の例の方が、正しい順番で荷積みを行う必要があるため、望む結果を得るのが難しいと言えるかもしれませんね)。
船と樽がなくとも、『レース』には、『プエルトリコ』に似た戦術の例が他にもあります。たとえば、各星系にひとつの品物しか置けないという制限を利用したり、あるいは、相手の消費能力を利用して品物の消費を強制したりすることができます。
では、なぜこういった『プエルトリコ』のインタラクションに気づくにも関わらず、『レース』においてはそれを見逃すプレイヤーがいるのでしょうか? 私の考えは、『レース』がある意味でカードゲーム以上にボードゲーム的なカードゲームだから、というものです。これは一部のプレイヤーに、そのカードゲーム的な面――たとえば手札制限などを忘れさせてしまいます(『プエルトリコ』には「所持金制限」なんてありませんよね)。
『レース』におけるカードゲーム的なインタラクションは、どんなものがあるでしょうか?
『6ニムト!』などのように、『レース』ではアクションを同時に選択します。これは他のプレイヤーの行動を予測して「ギャンブルする」一手を可能にします。このもっともわかりやすい例は、あなたが単発生産の星系を手札に持っていて、場には品物を持っていないときに、「貿易」を選ぶことです(誰かが「植民」を選んでくれることを期待しているのです)。これは予測が当たるかどうかによって、大きく追い上げる一手にもなりえますし、完全な失敗にもなりえます。より安全な、フィネッス的な例もあります。安価な品物を場に持っているが、手札にも高価な品物の単発生産星系があるときに、「貿易」を選ぶのです。こうすれば、悪くとも安価な品物を売却することはできますし、誰かが「植民」を選んでくれれば、高価な品物を売却しつつ、安価な品物を消費してVPを得ることができます。
こういったギャンブルとフィネッスの例は数多く存在します。たとえば、「生産」が選ばれることを予期して、それによってカードを産んでくれるような発展を先に置くために、「開発」を選ぶとしましょう(こういった状況はよく見られますね)。そのとき、「生産」が選ばれなかった場合に備えて、以降の発展を割引してくれるような別の発展を構えておくこともできます。フィネッスとなりうるプレイや状況を見極めるには、他のプレイヤーが何をしようとしていて、どのアクションを選択しようとしているのかということに注意を払う必要があります。
多くのカードゲームでは(たとえば『ラミー』)、捨札を介したプレイヤーインタラクションがあります。『レース』の3人や4人のゲームでは、山札がとても少なく、終盤では基本的に何度もリシャッフルが行われます。そしてそのときには、既に場に出ているものによって、相手が狙っているものもかなりわかりやすくなりがちです。捨札を注意深く管理して対戦相手を妨害するのは、『レース』において、重大ではないながらも効果的な戦術です。
カードゲームにおけるプレイヤーインタラクションの別の例は、「カード圧迫戦術」です。それは、手札が少ない相手をアドバンテージのために利用するというものです(たとえば、『アーク』で新しい船室を開けたり、『ワイアット・アープ』で新しいならず者を置いたりするときのように)。『プエルトリコ』にもこれと似たようなものがあります。相手の所持金が少ないときに頻繁に「建設」を選び、ゲームのテンポを奪うというものです。『レース』では、これは幅広く応用できます。なぜなら「開発」と「植民」というふたつの建設アクションがあるためです。優勢なプレイヤーの手札がすくないとき、他の熟練したプレイヤーは「開発」と「植民」の両方が選ばれるように仕向けるでしょう。それによって追いつくことができるからです。
『レース』では、『プエルトリコ』と同じように(そして『サンファン』とは違って)、ゲームの終了条件が複数あります。「開発」と「植民」の両者が存在することに加え、2倍のVPを獲得する「消費」があり、VPチップの数自体も『プエルトリコ』より少ないため、『レース』のプレイヤーは、ゲームの速度と終了の仕方をいっそう総体的に管理する必要があるのです。相手の動きに気を付けることでこれを察知し、自分のプレイをそれに適合させていくことは、とても重要な要素です。
たとえば3人のゲームで、「生産」と「消費x2」のモードに入り大量のVPを獲得し始めたプレイヤーがいるとします。その相手二人が毎ラウンド「開発」と「植民」の両方を選べば、速やかに場のカードを揃えることで、VPを稼がれる前にゲームを終えることができるでしょう(それに互いのアクションを利用しあうこともできます)。逆に、ひとりが強力な発展や星系を配置していこうとしたならば、他の二人は「生産」と「消費x2」のモードへ移行することで、場が整う前にVPを取り切ることができるでしょう。こと熟練したプレイヤーを相手にする場合、相手を無視して単純にプレイすることは敗北に向かう道となります。
ここまで、相手の手札の枚数や品物の有無に注目して採る戦術について論じてきました。これは、相手の場にある特定のカードの能力に注目する戦術とは対照的なものです(しかし、相手のカードの能力に注意をはらうことは、しばしば良い手がかりとなります。他の要素と組み合わせることで、相手が何を選択しようとしているかが導けるからです)。
場のカードの能力に関するプレイヤーインタラクションもあります。それは「寄生」戦術や「抑圧」戦術と呼ばれるもので、ときどきプレイヤー間のチキンゲームを引き起こします。
『レース』では、『プエルトリコ』の役割メカニズムを採用しています。すべてのプレイヤーがひとつのアクションを選び、選んだプレイヤーがアドバンテージを得るというものです。たとえば「探検」の場合、普通は2枚引いて1枚だけを残しますが、選んだプレイヤー自身は3枚引いて2枚残すことができます。そして能力がこれを変えるのです。私が「探検」時に引くカードを1枚増やす能力を持っていれば、他のプレイヤーが「探検」を選んだときに3枚引いて1枚残すことができるようになり、効果的な「寄生」がアドバンテージを生んでくれます(この場合はカードの選択肢が広がりますし、自分で「探検」を選べばいっそうのアドバンテージが得られます)。
ちょっとした寄生はいらいらするものではありますが、まず問題にはなりません。しかし、私が「探検」で1枚多く残せるようになる能力を持ったらどうでしょう? すると急に、他のプレイヤーは「探検」を選びにくくなります。彼らが2枚のカードを得るのと同様に、私も2枚のカードを得られるからです。この「寄生」は強すぎて、そのアクションを選ぼうという意欲を「抑圧」してしまうのです。仮に、既にゲーム終了までに必要だけの手札を持っていて、これ以上「探検」が選ばれるのを望まないのであれば、意図してこれを行うこともできます。しかしもし「探検」による追加のカードを目当てにしていたのならば、それは裏目に出てしまうでしょう……『レース』では『プエルトリコ』と違い、望まないアクションを結果的にプレイヤーに強制するような、「自動収入」がないためです。
この違いは、プレイヤーが「生産」を選択するかどうかという点に大きく影響することがあります(「生産」は、品物が置かれていない生産星系すべてに品物を置き、選択したプレイヤーはさらにボーナスとして単発生産星系ひとつに品物を置くことができるというアクションです)。
あるプレイヤーがとても強力な寄生カード(「生産」の際にたくさんのカードを生むもの)を持っているため、そのプレイヤーだけが延々「生産」を選び続け、他のプレイヤーもそれに便乗して「生産」と「消費x2」のサイクルを繰り返すので、私は高得点の発展をたくさん建てようと思っていたのにその時間がなくなってしまう、というようなゲームが何度もありました。しかし、「生産」を選び続けていたプレイヤーがそれをやめた途端、他のプレイヤーはうまく機能しなくなり、ゲームはVP切れでは終わらなくなります。そうなると私は持っていた発展をすべて配置し、勝つことができるのです(そのようなゲームのあとの、熱い検討会も楽しいものです。寄生していたプレイヤーが、なぜ「生産」を選ぶのをやめて私を勝たせたんだ、ともう一人のプレイヤーを非難し始めるのです……)。
寄生能力と抑圧戦術、そして「チキン」ゲームが起こりうるという可能性は、プレイヤーのアクション選択に劇的に影響します。そう、『レース』におけるインタラクションのほとんどは、同時にアクションを選択するというメカニズムにのみ集中して存在しているのです(ただし捨札の管理は除きます)。しかしこれは、驚くほど豊富な種類のプレイヤーインタラクションをもたらします。
『レース』が持つ最後のカードゲーム性は、ポーカーのように、結局のところ相手の手札の内容はわからないということです。これはときにあなたの計算や戦術を台無しにしますが、しかし平均すれば、状況に対し注意を払うプレイヤーこそが勝利する傾向にあります。この要素は、完全に情報が公開され非常に詳細な計算を必要する『プエルトリコ』とはまったく違ったフレーバーを『レース』に与えてくれています。
私は『レース』と『プエルトリコ』の両方が好きです(そして『サンファン』も)。私が述べてきたプレイヤーインタラクション――品物と手札の制限の利用、ギャンブルとフィネッス、捨札の管理、カードを圧迫する戦術、テンポの支配、総体的なゲームエンドの判断、寄生と抑圧の戦術、そしてチキンゲーム――は、あなたの好みにあうこともあわないこともあるでしょう(『レース』の、SF世界で帝国をつくるというテーマや、カードの建設やVPの獲得、大量のカード、アイコンの使用、アートワーク、そしてその他のいろいろが、あなたの好みにあうこともあわないこともあるように)。
しかし、私はこの記事が、『レース』に他のカードゲームと同種の様々なプレイヤーインタラクションがあることを理解するための助けとなってくれればと願っています。ありがとう。